日田往還 肥後路を歩く⑥ | 五馬歩路

五馬歩路

大分県日田・五馬地方の古路を歩いてみました

小栗林から五馬市

 

 

見折谷橋(通称「土橋」。当時は橋の上に土を盛った土橋だったのでしょう)を渡り、すぐに左の脇道へ入ります。

 

 

  

 

 

松並木の生き残りでしょうか、

 

200mほど進むと再び現道と合流します。

(左の路が往還道)

 

 

現道を50mほどで生目神社の脇へ入ります。

 

 

 

生目神社

明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、玉来神社に合祀されました。

本殿は、天瀬町塚田の阿蘇神社に移設されています。

地元の方々が再建しています

 

  

旧神社跡

所有者が整備を施していて、残っていた当時の石材が寄せられていました。

 

右が往還道跡

 

 

 

竹林になっていますが、左手に茶屋がありました。

この神社付近には、三軒ほど茶屋があったようです。

 

 

200mほどで農道に出ます。

 

 

そのまま直進。

 

  

 

300mほどで塚田路(里道)との追分があります。

塚田路は、湯浅農園の敷地内を通っています。

 

写真、小国方面に向かって

右が往還道、左は里道・塚田路

 

追分そば、通称「さがり松」に羊羹屋があったそうです。こちらも茶屋だったのでしょう。

 

 

150mほど進み、左へ道なりに

五馬市本村へ入ります。

古代、五馬には「五馬媛」という土蜘蛛がいました。豊後風土記に残されています。

景行天皇の日向熊襲征討に五馬媛も追従しました。帰りに立ち寄られた時に人々は大いに歓迎し「市」が立ったことから「五馬市」と云われています。また、お乗りの馬を繋いだ野原を「目野(馬野)」その際、日向から帰順して連れてこられ、ここに留まった人を《日向衆》、その集落を「日向市」といいます。現在も字名として残っています。

 

 

 日向市

 

玉来神社

景行天皇と五馬媛を祀っています。「応仁弐年戊子四月二十日」(1468)と書かれた社殿奉建の棟札が現存しています。

 

 

文政十年(1827)、石垣を作った時の記念碑でしょうか、石段横の石垣に組み込まれています。

 

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施主 五馬市邑庄屋 森周平  

       同邑 新兵衛 

       同邑 品右衛門
文政十年

奉寄進

丁亥八月吉日

石工 萬々金邑 源助

石垣 出口村  源六

五馬市村   氏子中

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伊能忠敬も測量時、手附3人と境内にて昼休みをしたと、五馬市村森家文書に残されています。

「文化九申六月廿九日通行 伊能勘解由手附三人 当村大名神社ニ而昼休ミ 平皿玉子ふわふわ かうのもの其外何もなし 御酒なし…」

村より、玉子ふわふわ(玉子焼き?)と香の物(漬物)を昼食に出したようです。

 

 

五馬村役場跡

明治22年、新村発足にあたり、玉来神社横の家を借り受け庁舎としました。郵便局もあったようです。
昭和12年に県道五馬線(674号)の小迫へ新設移転しました。

 

 

玉来神社を過ぎると庄屋屋敷、旅籠などが連なる村の中心の通りに入ります。

 

五馬市村中村

 

 

中村の梅木氏に話を聞きました。
石畳路が残っていた昭和30年代の写真を見せて頂きました。

 

 

梅木家は江戸時代からの旧家で宿も営んでいた様です。

 

道向かいの家も宿だったようで、古い屋敷のまま残っています。

 

 

  

 

当時、街道沿いの家先に便所を提供していた家があった様です。いわゆる「公衆便所」でしょうか。
この家には、その跡が残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右の空地が旅籠跡

 

 

 

庄屋森家跡

五馬市村庄屋跡。20数年前に跡継ぎ不在の為に絶家していまいました。

現在、「五馬媛の里」として旧庄屋屋敷と広い敷地が里山として公開され散策できます。

30年ほど前に最後の当主から南画家・田能村竹田の画や西郷隆盛の手紙を見せて頂いたのですが、今はどこに行ったのでしょうか…気になります。
現在の元屋敷は明治期に建てられ、以前は敷地の往還道よりも奥にあったといわれています。庄屋敷地の往還道沿いには「キモイリ場」という籠の乗り継ぎ場があったそうです。早籠(はやうち)が着いた時にお茶を出したり、次の早籠を出揃えておきました。次の駅は出口、村の年盛りの者が廻り番で借り出されました。。

 

 

 本城路(里道)入口
庄屋敷地右脇、現在隣接する畑との境にあり、奥にあった郷蔵脇を通って東へ向かっていた様です。

 

 

郷蔵跡

 

 

本城路

新城村を経由して本城村へつながる幹線の里道。

 

 

五馬学校跡・高札場跡

庄屋森家の往還道向かい、明治9年に森茂氏宅にて授業を開始。11年には専称寺に移し、翌年校舎を新築(現いつま小学校)。 
江戸時代〜明治六、七年頃まで、この敷地の往還道沿いに高札場がありました。

 

 

 

集落の北側から左の脇道へと入り、五馬市をあとにします。

 

 

 

 

 <参考資料>

「天瀬町誌・明日への礎」(2005改訂版)天瀬町
「天瀬町史 郷庄制から町制まで」(1971)天瀬町

「あまがせの文化財」(1998)天瀬町
「歴史の道調査報告書」・岡城路(大分県教育委員会)

「豊後国日田郡村誌」(1879)
(大分県立図書館所蔵書写 天瀬公民館写所蔵)
「五馬聞書」 野間吉夫著(1967)

「豊後国志:附・箋釈豊後風土記」唐橋世済 昭和6年
      (国立国会図書館デジタルコレクション)

「伊能図大全」

「江戸の旅文化」 神崎宣武著

「日田文化第五十三号」(2011)

  伊能忠敬日田を測る 日隈亨

「豊後風土記新考」 井上通泰著(1935)