肥後国境から曽田の台
熊本城・阿蘇方面、竹田・岡城方面から
それぞれ来た路は阿蘇郡小国町の宮原で合流そこから日田へ向かいます。
小国宮原→土田→下城→弓田→二俣→田原→
肥後国境から豊後国へ。
日田へ向かいます。
往還道もほぼこの道をなぞるようにこれより西へ約1㎞ほど曽田の台の追分へ向かいます。杖立・白糸の滝の上流、沢・「境ノ谷(さけんたに)」を境界に国境となっています。
この現道の県境と曽田の池の中間あたりに「大窪新道碑」の彫りがある石碑が立っています。
この石碑の歴史的情報が無く、銘からこの道を作った時の記念碑と推測します。
両側面と裏面にビッシリと漢文が彫られています。
嘉永六癸丑(1853)年十二月
年号を確認しました。
全解析は後日改めてすることにしました。
この路の上の丘陵にもう一つ古い路があったことから、それに代わるこの路を新設した時の記念碑なのでしょうか。引き続き、調査を続けたいと思います。
この路の左下は切り立つ様な深い斜面が続いています。緩やかになった辺り(写真中央付近)から往還道は左へ入り下って行きます。
現道の玉ノ木への道を10メートルほど進んだ所へ向かいます。
ここは日田方面から来ると小国と杖立への追分にでした。
笹が生い茂っていますが、往還道のラインが見て取れます。
この追分には江戸期の道標があります
従是右つえたて道
左小国宮原道
施主 玉木安平 杖立彦右衛門
江戸期、湯治で栄えた杖立の湯でしたが渓谷の為に日田から杖立川沿いのルートは無く、ここを右に玉ノ木を経由する急坂で険しいルートしかありませんでした。
この曽田の台には「曽田の池」という大きな堤があります。江戸期に灌漑用に造成された様です。時期は不明ですが、天保年間の出口村絵地図には確認できます。
しかし、文化期に測量した伊能図にこの堤は載っていません。これだけ大きな堤なので省略したことに疑問を感じます。また、国境~曽田の台~坂~出口驛入口・北平までの路筋を見ると旧ルートと見て取れます。
大分県森林基本図に加筆
このことから、この曽田の池は文化年間以降、天保年間以前に造られたものではないでしょうか。
さて、新ルートは
追分を過ぎて現道を横切る様に堤の方へ下りて行きます。
ススキが茂っている中に往還道筋が見て取れます。春に野焼きをしたあとはハッキリとした道筋が見えるのですがここは地区の共有地でコロナ禍の為、今年も野焼きは中止するそうです。
通称「駄馬ん小屋」の脇を通り、
堤左岸を進みます。
古いルートは堤向かいの
丘陵を登って越えます。
松並木が出来ています。
当時の趣を感じます。
当時はこの高原を超え下った所に出口の驛があり、そこには現在でいう運送屋、馬で産物等を運ぶ「駄賃取り」という人達がいました。
馬の背に荷駄を載せこの高原を行き来していました。馬には、約5センチ圣の大きな鈴が付けられ、ガランガランと大きな音を響かせていたそうです。
駄賃取りの再現 昭和60年頃
(天瀬町誌より)
この曽田の台の風景を感じさせる駄賃取りの日々を歌った労働歌であり馬子唄の
「五馬の駄賃取り唄」は
この地の郷土史に必ず歌詞が出てきます。
どんなメロディなのか長いこと探していたところ、偶然にも同級生の民謡唄いの十八番でした。
「五馬の駄賃取り唄」
馬よ勇めよ ホイ ホイ ホイ
この坂ひとつ ホイ ホイ
<後ん馬 どうしたコツかぇ
はみゃ(食みゃ)三じゅう(升)
打ち喰ろうチ
下んツバ(よだれ) けぇ垂れチ>
登りつむれば 上は三里のマンデーラ
(万平・広い高原)
イチデー(一代) 後家とて
ホイ ホイ ホイ
駄賃取りにゃ ゆくな ホイ ホイ
いつも夜出て 夜帰る
今にもこの原野に
唄とガランガランという鈴の音が
こだましてきそうです。
新しい路は、日田に向かって
池の左岸からそのまま直進します。
<参考資料>
天瀬町誌・明日への礎(2005改訂版)
あまがせの文化財(1998)
続小国郷誌(1965)
歴史の道調査報告書・岡城路
(大分県教育委員会)
伊能図大全
大分県森林基本図
五馬の駄賃取り唄/唄・吉野晃聡