前回の回想の続きです。


北区の職員さんが動いてくださって、母を群馬県の障がい福祉施設に預ける事になりました。前回と今回の間の事はまだ少し話せませんが、父も私も働かないと借金が返せません。


当時マンションに来て貰っていた家政婦さんが、後に窃盗で捕まったと紹介所から連絡が入ります。

お金のある場所を予めお知らせして全額お任せしていたのですが、幸い我が家ではそんな事は起こっていませんでした。

優しくてとても良い方だったので何かの間違いではないかと思わずにはいられません。


父と私は毎日口論するようになり、

「お前みたいな者は親でも子でもないから、出ていけ」と、父を怒らせ、私は家を出ます。9年近く小中学校通った町へ戻って居抜きでスナックを経営。自分が通っていた中学校の直ぐ近くなので、夕方、看板を出していると同級生達が下校して来ます。

でも、誰一人私の事を先生に言いつける人はいませんでした。これには本当に感謝しています。


父は別な区の公団住宅に引っ越して秋葉原にある電機会社から柑橘卸売業の会社に転職。

親子の縁を切り音信不通でしたから、この事を知ったのは1年半後。親戚に連絡先を聴いて家出から戻ります。

「ここへ座りなさい。今度、家を出たら2度と戻って来させないから、覚悟しておくように。」


施設に入った母は物盗られ妄想が始まり、持ち物に全部名前を書くようになります。

利き手は麻痺している為、左手で。

お盆やお正月に自宅に帰って来るとタオルや着物、洋服の他、箪笥の中に迄、油性ペンで大きく名前を書いてしまいます。


「ご飯に睡眠導入剤が混ぜられている」被害妄想かと思いながらも、施設の職員さんに確認したところ、余りにも夜寝ないし、他の薬も飲まない為に何回かそういう事もあったようです。

それは止めて欲しいとお願いしました。


職員さんの目を盗んで夜間に非常口から脱出。朝方4時頃に警察官が保護してくださったと電話を受けます。

半身麻痺の身体でどんな思いで暗い山道を下ったのか考えるだけで胸が締め付けられます。


「家に帰りたい」

お盆やお正月に自宅に帰れても又、父と私の休みが終わると施設へ戻って貰わないといけない。泣いて暴れる母に父は時間をかけて丁寧に現状を説明して施設に戻る事を納得させます。


そんな介護状態も僅か3年で終わってしまいます。


続きは又、改めて。




門前仲町のスナックは、直ぐに辞めて田舎町の賃貸の住居に戻りましたが、中学校では不登校と家出が大問題となり、転校する事に。

「医者になりたい」という作文と成績から、返済不要の奨学金制度の話があったのに全て御破算。東京に住む父の元へ。


母はその頃、伊豆のリハビリセンターに入院中。急性期病院では90日退院のルールがあり、同級生の父親が経営する病院や知人が紹介してくれた病院を3ヶ月毎に転院。

当時は完全看護体制ではなかった為、今の初任者(ヘルパーさん)にあたる「派出婦」や「家政婦」を付き添わせました。費用は父の収入よりも高かったし、家政婦会は高齢の女性ばかり。

母は病気になる前から人の好き嫌いが激しい人で気に入らないと直ぐに交代を要請してきます。たまたま、兄の婿入り先の義母がその職に就いていた為、そのお婆さんにしたら何も言わなくなりましたが、東京まで来て貰う訳にはいきません。


東京の北区の中学校に転校し、駅前の8階建てのマンションに引っ越して母をリハビリセンターから引き取る事にしました。

母は自分の病気と闘いながらも回復の見込みがないと絶望するとマンションの屋上に上がり飛び降りようとします。

言語も不自由でしたが感情失禁で顔を真っ赤にして泣きわめきます。胸が痛みます。

普段は右半身麻痺で左手で杖をつきながらゆっくりとしか歩行できない人が、そういう時は私を振り払い転倒させる程の力を発揮。私が家に居る時は制止して宥める事もできますが、学校に行っている間にもし錯乱したら、高齢の家政婦さんでは止める事はできませんよね。

母の3年間に及ぶ入院生活で父も精神的に疲れていましたし、借金もかなり膨れ上がっている事でしょう。


さて、どうしたものか。。。

一人娘の私にできる最大限の事は?


最近は『家族の思い出』というカテゴリーを作り、うん十年前の思い出を語っています。


小学校低学年の時の事。父の高校生の時の成績表が出てきて母が誇らしげに私に見せてくれました。

オール優(優良可だったか甲乙だったか記憶が曖昧)そして学級委員を務めると記録があり、父は頭が良くて人望もあった人なのだと知ります。

全然、偉そうぶらないところはこの後もずっと変わりませんでした。


私は学級委員の推薦を断り、その時にクラスメイトと先生がとても悲しそうにしていた事があります。父は

「人が望んで推してくれた役目なら喜んで引き受けるべきだよ」と、優しく諭してくれました。以降、小学校高学年からは学級委員や児童会副会長を引き受けます。


小学校の成績表は体育以外オール5。(5段階評価でたまに図工が4)

母が店に来るお客さんにそれを自慢していた事がとても恥ずかしかったのですが、成績表で良い評価を貰えばこんなにも喜んでくれるのだと知り、期待に応えなければと勉強を頑張るようになりました。


中学一年生の時に学級会長に推薦されて引き受けましたが、女で会長はたった1人だけでした。この頃、母は脳血管疾患の後遺症で入院生活が続いていましたが、私がセーラー服を着て成績表を持って報告に行くととても満足げな笑顔を見せてくれました。


私も自分の子供に見せる事があるかも知れないと小学校、中学校の成績表を大事に保管してあるのですが、残念ながらその機会はありませんでした。

中学校2年生の2学期頃、学級副会長を途中で辞退します。独り暮らしに疲れが出始めた時期です。店の家賃が払えなくなり、一軒家を借りて引っ越し。

以降、学業の成績は奮う事なく3年生の1学期に家出をして東京の門前仲町にあったスナックに住み込みで働きに出ました。

趣味でウエスタン・ギターを1本抱えて。

当時、石原裕次郎さんの「ブランデーグラス」や寺尾聰さんの「ルビーの指環」が流行していましたっけ。


今日は自民党総裁選の結果が発表される日ですね。

続きは又、今度、改めて。