将門の首塚~平将門のたたりと霊力について | 東京路地裏ノート

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日本三大怨霊のひとり、平将門(たいらのまさかど)をご存じでしょうか。

歴史上、そのたたりの、すさまじさから、菅原道真、崇徳上皇、平将門の三人を日本三大怨霊と呼んでいます。

その一人、平将門の、首塚というものが、皇居のすぐ近く、千代田区の大手町にあります。



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大手町のオフィス街のど真ん中、三井物産や三菱UFJ銀行などのビルに囲まれた中に、それはあります。




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東京メトロの大手町駅、地下道の一番はずれのC5出口を上がります。






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地下鉄の出口を上がると、目の前は三井物産・・・




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そのすぐ隣に、樹木に囲まれた一角が・・・





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ここが、平将門の首塚です(千代田区大手町一丁目2番1号)

将門塚(まさかどのつか)とか、将門の首塚(くびづか)とか、将門塚(しょうもんづか)とか、呼び名は色々です。

また、埼玉県幸手市の浄誓寺にも、首塚があり、都内にもいくつかの将門の伝承地があります。





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見たところ、小さな児童公園くらいの広さです・・・

へたなことをして、たたりを受けないよう、緊張しながら中へ。




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入り口わきに、平将門を祭神としている、神田明神の、のぼりが、はためいています。


14世紀はじめに、疫病が大流行したとき、平将門のたたりに違いないといわれ、その霊をしずめるために、将門は神田明神の祭神として、まつられました。


その後、明治7年に、明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に、朝廷に反逆した平将門がまつられているのはおかしいと問題視され、祭神から外されます。


しかし戦後、平将門は朝廷の横暴な支配に立ち向かい、新たな時代をきり開いた英雄として扱われることが多くなります。

昭和51年にNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が放送されると、一気に世間の評価も変わり、昭和59年、平将門は、神田明神の三の宮の祭神として復帰します。






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将門塚の敷地内には、案内板が何枚かありますが、将門のたたりについては、あまり触れられていません。




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将門とは、どんな人だったんでしょうか・・・

これは、茨城県坂東市の総合文化ホールにある、将門のブロンズ像です。

将門の父、平良正は、下総(千葉県)の実力者でした。




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将門は、父の死後、その領地を伯父に奪われたり、一族の裏切りなどを発端とする、数々の内乱を戦い抜いて、ついには関東地方八州を制圧して、「新皇」と名乗り、関東の若きヒーローとなりますが、京都の朝廷からは、反逆者とみなされてしまいます。


京都の朝廷は、将門を倒すため、藤原忠史や、藤原秀郷らを刺客として、関東に向かわせます。

さらに、呪術的な手段として、真言密教の寛朝という僧も、不動明王像と宝剣をたずさえて、関東へ向かわせました。



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将門と、朝廷軍の藤原秀郷らの戦いは、一時は、将門勢のほうが優勢でしたが・・・
下総の公津ヶ原という所で、真言密教の僧、寛朝が21日間の祈祷を行い、その満願の日、護摩焚きの火が最高潮に達した時、いくさの馬上にいた将門の額に、流れ矢が飛んできて、将門は戦死してしまいます。



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戦死した将門の首は、平安京へおくられ、みせしめの為、河原でさらし首にされます。

そして3日目に、将門の首は宙に舞い上がり、切り離された胴体を求めて、関東へ飛んでゆき、現在の首塚のある、大手町に落ちた・・・と、されていますが、実際には、将門の家来が、隙を見て首を持ち帰り、埋めたのではないでしょうか。



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↑坂東市国王神社 平将門の木像


そして、ここから平将門のたたりの数々が始まります。


1923年、関東大震災により、当時大手町にあった大蔵省庁舎が全焼します。


その後、将門塚のあった場所もふくめ、あたり一帯が整地されることになり、将門塚を壊して、大蔵省の仮庁舎が建設されました。


その直後から、役人に、足の怪我や、原因不明の病気にかかる人が続出しました。

将門塚を壊して、さらにその上に庁舎を建て、将門公を足下にした・・・怒った将門公のたたりだという噂が流れます。




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↑旧大蔵省


1926年、大蔵大臣の早速整爾(はやみせいじ)が突然倒れ、意識不明になります。


そして、わずか2年の間に、早速整爾をはじめ、工務部長の矢橋博士以下14名が亡くなり、武田政務次官ほか、数えきれない怪我人が出たそうです。



1928年、平将門のたたりを恐れ、ついに仮庁舎を取り壊し、将門塚を復元して、慰霊祭を行いました。



1940年6月、大手町の逓信省航空局の建物に落雷があり、それがもとで火災が発生し、中央気象台(気象庁)、大蔵省、厚生省、東京営林局など、全焼21棟、殉職警防団員2名、重軽傷者107人という大惨事になりました。

これも、将門公のたたりではないかという噂が広まり、このあと、平将門の鎮魂祭が手厚く行われたそうです。



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↑元GHQ本部(第一生命ビル)


1945年、終戦後、米軍のGHQが、空襲で荒れ地となっていた将門塚周辺を区画整理しようとしました。

整地のため、将門塚を掘り返そうとしたブルドーザーが、バランスを崩して横転、作業員2名が死亡しました。

GHQも、平将門のたたりを恐れて、計画をとりやめたのは、いうまでもありません。


現在も、平将門の首塚に、多くの人が線香や供花を持って訪れています。




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私が訪れた時も、ご覧のように、たくさんの供花がありました。カップ酒の左にあるお水は、私が持参したものです。



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「蓮阿弥陀仏」という字が見えますが、これは将門の法名です。




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首塚の境内には、カエルの置き物があちこちに置かれていますが、これは、将門の首が飛んで帰ったことから、行方不明の家族の方たちや、遠隔地に出張する会社員などが、必ず「帰る」という願いをこめて奉納してゆくそうです。



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平将門を三の宮の祭神とする、神田明神に行って、ゆかりのものを探してみると・・・




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平将門の御神輿(おみこし)が飾ってありました。




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将門塚保存会というのは、大手町の、将門の首塚のまわりにある企業などが参加して、首塚の維持管理を行っている会です。




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毎年5月に行われる神田祭では、もちろん、この将門の御神輿は、たくさんの氏子によってかつがれます。

首塚の近隣の企業に勤めるOLさんたちも、参加するそうです・・・



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↑成田山新勝寺本堂


ひとつ、大事なことを言い忘れていました。


前述の説明で、将門が戦死した時に、寛朝という僧が将門を倒すために、21日間の祈祷をした、と説明しました。

その祈祷をした場所に、寛朝によって開山したのが、お正月の初詣で有名な、現在の成田山新勝寺なのです。


つまり、簡単に言うと、神田明神は将門のたたりをしずめるための神社、そして成田山新勝寺は、将門を呪い殺すために建立された寺・・・立場が正反対なのです。


なので、神田明神へお参りに行ったら、成田山新勝寺への参拝はご遠慮ください。

これは面白半分ではありません。

思わぬ災いを招きかねないので、お気をつけください。


1976年、NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」は、平将門の生涯を描いたドラマですが、出演者全員、成田山新勝寺で行われる豆まきへの参加を断ったそうです。

もちろん、将門公のたたりを恐れて、です。





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戦場などで亡くなった武士の首や胴体を埋めたものを、首塚、胴塚と言い、平将門の首塚をはじめ、全国各地にあるそうです。

魂をしずめ、たたり神にしない為のものですから、貴方が、たまたま見つけたとしても、そっとしておいてあげましょう。







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