元とび職の不良少年が、世界の名門「カリフォルニア大学バークレー校」に合格した。そのきっかけとなったのは、父の背中だった。

STORYS.JP10月12日(月)18時0分配信

あなたには、人生を変えた「きっかけ」があるだろうか。

そして、その「きっかけ」に出会ったとき、自分を変えることができただろうか。

中学でヤンキーと呼ばれるようになり、偏差値30台の高校を卒業後、とび職になった少年が、世界の名門・カリフォルニア大学バークレー校へ入学した。

その「きっかけ」となったのは、大嫌いだった“父親の背中“。

いったいどんな背中を見て、そして、世界を代表する名門大学でどのような学びを得たのだろうか。

初めて警察に捕まったのは13歳の時だった。

神奈川県川崎市の宮前警察署に連行され、やたら長い調書をとった。

「朝起きたところから捕まるまでの過程をすべて話せ」そう言われた。
「マジで言ってんのこのクソ警察!?」そう思ったのはよく覚えている。

警察がワープロで書いた調書を印刷し渡してきた。

「調書のタイトル書け!」そう言われても何書けばいいんだろうと思っていたら。
「ぼくのやったこと」と書けと指示され書類を提出。

両親が迎えにきてその日は終わった。

なぜ愚れたのか?

小学生の時までは真面目な子供だったがあまり友達ができなかった。
家に帰っても両親の仲が微妙で家にも外にも自分の居場所がなかった。

母は「良い高校行っていい大学に行っていい就職してね!」と言うタイプの人。
父は売れない外資系生命保険の営業マン。

売上がない月は会社から借りて生活していたそうで自分が電気をつけっぱなしにして外出すると母にものすごく怒られた。
赤い数字で埋め尽くされている父親の通帳を見せつけられ借金とは何か知った。

中学に入るとやんちゃな行動をするヤツに一目置くという不思議な価値観が現れ、不良な行為をすることで友達ができた。
子供の頃の寂しさを中学で知り合う友達で補い、そこが自分の居場所になっていった。

どんなレベルの不良だったのか?

ワルだったと言っても中途半端な中坊で最も目立つヤンキーの横でイキがる程度のガキだった。

川崎市の公立中学に進学したのだが、各学年に不良グループいて周辺地域ではちょっとしたワル名門校だった。

彼らの共通点は「家庭に問題がある」ことと「武勇伝を持つことに美徳を感じる」ことだった。

その為、学校内で目立つために見えるところでわざとタバコをすったり髪を染めたり校則を違反する。
そういう事をするルールを破る度胸があるヤツ達が集まり社会から阻害されるがその代わり内輪の絆が深まり友達ができる。

一度グループか確立すると排他的になり、隣の中学を潰しに行ったり、強い中学と連合を組んで横浜の中学を潰しにケンカ遠征に行ったりしていた。

勉強はまったくせずに、朝まで遊んで昼過ぎに学校で友達と待ち合わせして遊びに行くような生活をしていたら中学を卒業するときにはこんな感じに仕上がっていた。

高校を卒業する

中学で既に愚れていたので勉強にはまったく興味なかった。その為川崎市で偏差値30レベルの日本国内最下層の高校へ進学した。

毎年川崎市の色んな中学から不良学生が入学してくるので至る所にタバコの吸殻が落ちていた。
異常な勢いでゲラゲラ笑ってる2年や3年の先輩はマリファナでHighになっていた。

女子は魂が抜けたような顔で登校し、一日中廊下でくっちゃべりながら化粧をしアイロンで髪をクルクルにして完璧な状態で下校しどこかへ遊びに行く。

幸い自分の中学出身のド不良の先輩がその高校をシメていたので、他の不良の先輩といい距離感を保ってある程度平和に高校生活を過ごすことができた。

そんな環境でも自分が高校を中退せず卒業できたのは、たまたま地元の友人達が「高校くらいは卒業したいよね~」と話していたので、なんとなく卒業だけはしておこうと思い卒業した。

とび職になる

高校卒業間際に担任に「お前進路どうするんだ?」と聞かれた。

未定だと答えると「はやく決めろ」と言われたので、とび職をやっている先輩にその場で電話し「そろそろ高校卒業するんで仕事ありますか?」と聞いたら「明日から来い」と言われその場で就職が決まった。

将来の事なんてなんにも考えてなかった。
ただ僕の周りには職人が多く王道な選択肢だった。
とび職の中でも歩合制でキツい代わりに儲かる会社に入ったので月35万~40万程度稼いだ。

19歳のくそガキには十分な額の給料でほしい物を買い、やりたいことをし、ある程度の目先の欲求はすぐに満たされた。それによって仕事自体の面白さを追求するようになってくる。

知らない世界を知り人生をやり直すことを決まる

仕事を始めて3ヶ月にも満たない頃に父親が真剣な顔で話しかけてきた。

営業成績が良くなり会社で表彰されるから式に来てほしいとのことだった。
まだ若干反抗期が抜けきれてなかったので「いかねー」みたいなことを言った。
しかし、その後もしつこく誘ってきた。

表彰式の場所がなぜかハワイだった。
入社3ヶ月にも満たないぺーぺーが休みを取るのは申し訳ないと思っていたので本気で断ったが、それでも来てくれと言われたので1泊3日でハワイに行くことにした。

生まれて初めてのハワイ。

英語も喋れるわけもなく言葉が通じないことにイライラしていた。
「やっぱりこんなとこ来るんじゃなかった!」そうタクシーで思った。

ホテルに到着し早速表彰式会場に向かった。

会場は不思議な雰囲気だった。
ハワイだからか会場にいる人の殆どが幸せそうに見えた。
この式は外資系生命保険会社のライフプランナーと呼ばれる営業マンに対する表彰式。
その会社では毎年成績上位者が海外旅行セットの表彰式に招かれていた。

会場で初めて会う親父の友人と適当な会話をしていた。
「いったいトップセールスはいくらくらい貰ってるんすか?」そうきくと「今年1位になった彼は2億くらいかな?」そう言われた。

「2億??」

「オレの仕事は1平方メートル足場を掛けて250円だぞ!」
その時初めて同じ時間働くのにここまで差があるのかと知った。
しかも彼らは仕事に対して強い情熱とやり甲斐をもっていた。

親父の背中

そんなスゲー連中の中で表彰される父親を見て 初めて親父の努力を知った。
なんでも成績が上がらなければ数年で辞めていく外資系生保営業の世界で16年間売れないままセールスを続けクビ寸前の所で成果を出したようだった。

その売れない時代の半分は自分が最も愚れていた時期と重なっていた。
仕事がうまくいかないうえに息子はちょこちょこ警察に捕まったり外や学校で問題を起こす。
その度に妻とケンカし家庭内別居状態にまで陥る。
母は精神がまいってしまい精神病院に診察にいく程だったそうだ。

その上、娘は大学に入学したのでなんとしても学費を稼がねばならなず、経済的にも精神的にも苦労していた。

そして16年目に初めて表彰されることになったので親父からすれば大きな達成でとてつもなく嬉しかったんだと思う。
だからあれだけ表彰式に来いと自分に言ってきたのだとわかった。

父親を目指す

表彰式に出席した経験が自分の仕事に対するマインドセットを変えた。
「せっかく働くなら沢山稼ぎたいしやり甲斐を感じる仕事がしたい」そう初めて思った。
それだけでなく親父の背中を見たことで自分も親父のいる営業の世界で一流のセールスになりたいと志すようになった。
そして一流の仕事をするには知性が必要だということもその時知った。

勉強をはじめる

20歳で初めて勉強が必要だとわかった。

でも何をどうやればいいのかまったくわからずなんとなく株の本を数冊買ってみた。

まったく意味がわからず途中でやめた。そもそも本一冊読みきったことすらなかった。
「まず新聞読め」とアドバイスをもらったので実家にある日経新聞を読もうとした。

その時気づいた。

「これなんて読むんだろう?:促す」「??」なんて意味だ??「為替??」は?なにそれ?

自分は新聞も読めないレベルの語彙力だった。

直ぐに本屋に駆け込み辞書を買うがそもそも読めないので辞書がひけない。
「辞書クソだな!」そう思った。

幸いにも電子辞書に部首索引があったので直ぐに購入しなんとかそれで乗り切った。

専門学校に通う

いずれにせよ独学で勉強するのは無理だと思い、情報処理の専門学校に通い資格をとって就職しようと考えた。
授業は2進数から始まるのだが累乗の意味もわからないし分数の通分のしかたも覚えてなかった。
そもそも四則演算はなぜ()が重要なのかもわからず、演算の順番がめちゃくちゃで回答がいつも変化した。
教育のプロの教えのおかげで情報処理の国家資格を取得しIT系企業の法人営業として就職することができた。

営業マンになる

2008年についに営業マンになった。

しかし入社した年の10月頃にはリーマン・ショックが起き100年に一度と言われる金融危機が発生した。
幸い自分は新卒で入社していたこともあってクビになる恐れはなかったが、能力のない中堅社員はどんどん淘汰されていく現実を見た。

「オレ全然イケてないな、デキる人ってなにが違うんだ??」この頃から自分とデキる同期・先輩・上司を比較し始めた。そこでわかった違いは

・経験値

・学歴

「あの人らが持ってる勉強していく力が欲しい」そう思うようになり「もしかしたら大学受験とか大学の授業で培ってる臭いな!」そう思うようになり大学進学を考えはじめた。

大学を目指す

学ぶ能力がなければどんなに良い経験をしても得られるものが少なくなってしまう。
まして景気の影響もあり社内の多くの案件が凍結・キャンセルになっていたので経験する機会すら少なくなっていた。
世間は最低3年は働かないと経歴とは認められないと聞いていたので3年くらいは働こうと思っていたが、経験値が貯まらない環境に3年もの時間を注ぐことに意味を感じなかったので思い切って退職して大学に行くことにした。

自費でなんとか行ける大学の候補として放送大学を選び情報収集していた。

ネットでその情報を見ているところを親父に見られ親父が「お前今更大学行こうとしてるのか?」と言われた。

「・・おう」そしたら「今なら投資できるぞ!」と言い出した。

後から話を聞くと自分が本来大学に行く年齢、18歳の時、親父は金がなく学費をサポートすることができない状況で、父親にとってそれは情けないことだと捉えていたようだ。

大学を目指したのは24歳、親父のビジネスは成功していた。
次の目標として家族3代で成功することを目標に掲げていたらしく、そのタイミングで自分が大学を目指したので親父は「一旦予算のことは考えないでベストなプランを考えてみろ」と言ってきた。

親父が家族の為に貯めた大切な金を使うのだから「てっぺん」狙おうと思い東大受験を考える。
しかし、あまりにも勉強経験がないので受験をパスするのに2年~3年かかってしまうと想定した。
大学を卒業するのに6年以上かけるのは長すぎると思い期限は最大5年に設定した。

UCバークレーを目指す

こで海外の大学を調べるとカルフォルニア州では編入制度が整っていることに気づいた。
この制度を使えば短期大学の2年間の間に基礎教養と英語を養いうまくいけば名門校に編入するチャンスがある。
「これしかないな。」そう思った。

カルフォルニア州の「てっぺん」はカルフォルニア大学バークレー校、通称:UCバークレーってとこだとその時知った。
世界大学ランキングで常にトップ10にランクインしている大学。

ウィキペディアを見たら世界一の公立大学で卒業生に孫正義さんがいることを知り直ぐに彼の自伝「企業の若き獅子」を読んだ。

そして自分も彼のように平成の二宮金次郎になろうと思い親父から2000万借りて留学することを決めた。
軽いノリで「オレがバークレー入ったらどうしよう?」って親父に言うと「お前じゃ無理だから考える心配ない、安心しろ」と言われたのをよく覚えてる。

誰にも期待されていないスタートだった。

とりあえず渡米

留学を決めた24歳の時に初めて英語を勉強し始めた。「Somethingってなに?」ってレベルだった。とりあえず渡米。

カフェでコーヒーの注文もろくにできず「I want to cofee!」とひたすら言っていた。
その後店員に「Would you like room for cream??」と言われるのだがそれが聞き取れるようになるのは相当あとのことだった。(クリーム・ミルクを入れるスペースは入りますかという意味です。)

とにかく英語が出来なかったのでコミュニティカレッジに入る為の英語力をつける為に語学学校に入学した。

場所は最初からバークレーにした。

理由はUCバークレーがどの様な場所か先に見ておきたかったからだ。

しかしこれが留学を成功させる上で一番重要であったと今は思う。

特に以下の3点を中心に生活習慣を改善した。

やれることは全部やる

環境が整ったからって頭が良くなるわけではないし成績もあがらない。
語学学校を終えバークレーにあるBerkeley City Collegeというコミュニティカレッジに入学した。
英語と基礎教養のレベルが低いので周りに追いつく為に高校レベルの教科書を引っ張りだし勉強する必要があった。
効率よく勉強する為に自分を律しコントロールし徹底的なタイムマネジメントを実行した。

1. 活動記録を取り自分の行動を分析する。

2. 睡眠時間を削らない。

3. その状況(クラスの構成や自分の教養レベル)に合わせたライフスタイルを構築する。

グーグルカレンダーを使って一日の活動を記録し勉強に裂けている時間を計測した。
するとボーッとしている時間や集中できていない時間が見えてくる。
なるべく多くの時間を勉強にあてる為に勉強以外の行動をより効率化したり勉強する順番を変えるなど工夫した。

寝る間も惜しんで勉強することも試してみたが、それは非効率で気持ちが不幸せになるので必ず最低6時間は寝ることにした。
もちろん眠い日は昼寝もするし寝過ごすこともあったが、基本的には毎日夜12時に就寝して朝6時に起床した。

あの当時はウソみたいに起きた瞬間から机に向かい、単語を覚えてからシャワーを浴びる生活をしていた。

当時のカレンダー。勉強している時間を黄色に塗っていた。

一日の稼働が18時間で14時間勉強すると4時間余る。
食事・移動・シャワー等を考えても最低1時間は自由時間があるので、その間はネットでお笑いなどを見てストレス解消していた。
移動と食事以外勉強する生活を続けるとただ長く勉強すればいいってものではないことに気づく。
生産性を保ちながら長く勉強するのに最適な時間は一日14時間だと自分の経験から結論付けた。

自分がやっていることが正しいと信じる

どんなにすごいスポーツ選手でも最初はできないはず。
だから勉強も子供の頃からの積み重ねでデキるようになっているだけで「今自分がデキないのは経験が足りないからだ!」と言い聞かせ自分がやっていることが正しいと信じていた。
その結果、立ち止まることなく勉強し続けることができた。
その過程はもちろん無駄なことばかりしていた。
その無駄な経験が知恵になり行動を改善することができたと思う。

自分はこのライフスタイルを2年続けた。
でもこのやり方は一生続けるものではない。
自分が思うに死ぬ気で努力しようと思っても2年が限界でモチベーションが続かない。
その先はモチベーション管理が重要になってくる。

合格発表

4月26日の夕方頃にネットで合格発表があった。
朝からずっとソワソワし何度もサイトに行って確認していた。

そして5時頃。

合格!!「Congratulations, Takuya!」

数分ボーとした。「これコンピュータのエラーだったりしてな。。。」そんなことを考えていた。
とにかく親父に電話した。

はじめて親父の驚いた声を聞いた。

生まれて初めて少しは親孝行できた気がした。

日本にいた時には多くの人に「お前そんなことも知らないでよく生きてこれたな」とかよく言われていたが
そんなオレでもなんとかなった!

人生で一番うれしい瞬間だった。

しかし本番はこれから。
授業がめちゃくちゃ難しいとか死ぬほど課題がでると他の学生から聞いていたので、この残り2年でどれだけ成長できるかがオレの人生を決める。

編入後、居させてもらってる感

編入前からバークレーに住んでいたので、UCバークレーはドリームスクールで入学が決まったら地元でめっちゃ自慢してやろうと思っていた。

しかし、あまりに周りについて行けなくてそれどころじゃなかった。
「こんなスゲー人達の大学に居させてもらってるんだな」と恐縮しながら最初の学期を過ごした。

初めての中間試験は統計学で30点と平均以下。
テストで点数が取れなくても周りがすごいからしかたないと正当化していて成績も悪かった。

「いやっ、ちょっとまてよ!」と思い始まる

1学期が終わるとだんだん慣れてきて「やっぱり人間本来の頭の良さは変わらないな」と思う様になり、いよいよライバル意識が芽生え「オレもバークレー生だ!」と自覚が芽生えた。
先学期の失敗を踏まえて攻略法を考え勉強の仕方に問題があると思い戦略を考え始める。
すると周りの学生と比較することで一つ大きく違うところを発見した。

それは「授業自体で理解し覚える」こと。

はっきり言って自分は元々勉強は得意でない。
だから授業を聞いてわからなかったら「後で調べよう」とか「週末にキャッチアップしよう」と考えその場はなんとなく流す癖が身についていた。

それをやるとクラスの課題に時間を使えるはずが授業の内容をもう一度やるので他の課題が追いつかなくなる。
読書課題などは週末に200ページくらいあるので英語が苦手な自分にとってはそれだけで時間がかかる。

だから以下の3点を行い授業自体をその場で理解し覚える癖をつけた。

1. 授業の内容を予測して予備知識を入れておく。

2. 明日からその授業を自分が教えると仮定してノートを取る。

3. わからないことはその場で解決する。

などと勉強方法を変えた。
その結果、成績はかなりまともになりエッセイでもネイティブの平均値を大きく上回る成績をとることができた。

つーことは

自分はいつも人の能力はさほど変わらないと思っている。
確かに天才はいるがほとんどが努力家だ。
ここで勉強している人のほとんどが「オレはそんなに頭良くない」とか思っていて人一倍努力できる努力家集団であることに気づく。

自分が最初の1学期目で成果が出せなかったのは周りが自分よりも数段優れている事実を地頭の良さの影響だと錯覚していたことで努力を怠ったからであった。

アメリカの大学は日本の大学と比べると入学段階ではそれほど学力を求めない。
入学後にひたすら鍛えられて卒業していくからだ。

もし自分がバークレー生の自覚に芽生えなかったら恐らく看板だけ立派なザコとして社会復帰していたのだと思う。

どこ行っても常に上には上がいる。
それを見た時に元の能力はさほど変わらないと思うことができれば更にもう一歩進むことができる事を経験した。
あとは継続した者が勝つと信じてこれからもやり続けようと思っている。

自分のようなザコでも継続的な努力はできるのだ。

勉強もできず、不良と呼ばれていた彼は、学歴だけでなく人間的な成長も得た。

自分もバークレーの生徒であると自覚することができなければ、「看板だけ立派なザコとして社会復帰していた」と語られているように、ただ大学に入学することだけ、卒業することだけを目標にしていたら、肩書きだけ立派で、人間的には全く成熟していない、いわゆる「高学歴バカ」と揶揄されていたかもしれない。

ただやみくもに勉強をしても意味がない。
勉強をその先にどう活かすのか、きちんと考えることができて初めて勉強に意味ができる。

途中で腐らず、自分になにが足りないのか、周りとなにが違うのかを考え、
軌道修正ができる素直さと冷静さがあって初めて人間的な成長もできる。

この両方を成し遂げた彼が見た父親の背中は、それほど大きかったのだろう。

何かに挑戦したいと考えている人に、今の自分を変えていきたいと思っている人に、このストーリーが、彼にとっての父親の背中に値するような「きっかけ」となることを祈って。


何でも嫌々やってれば身につかない。

やる時期じゃないってこと。

人生学びの連続。

進むべき道が自ずと見えてくる。

また後程。


踏まれても叩かれても

努力さえしつづけていれば

必ずいつかは実を結ぶ

升田幸三

(日本の将棋棋士、実力制第四代名人 / 1918~1991) 


努力は必ず報われる。

もし報われない努力があるのならば

それはまだ努力と呼べない。

王貞治

(日本の元プロ野球選手、監督 / 1940~) 


ベルホームページ (霊視鑑定・パワーストーン)
http://www.sakura-takagi.com/

パワーストーンの商品は、ご予算に合わせて製作しております。

メールではなく直接注文したいお客様は、お時間を作ります。

お問い合わせの際にその旨記載して下さい。(通話料無料)

ベル人生相談(相談・愚痴・悩み・話し相手)

http://ameblo.jp/sakura-takagi/entry-12025666935.html
本日中に人生相談をご希望の場合、その旨を記載してメールして下さい

ご予約が空いてる場合に限り、お受け致します。(通話料無料)

ベルお問い合わせ先

sakuratakagi@gmail.com
お気軽にお問い合わせ下さいませ。