「あの場面、ストレート以外で打
 ち取れる可能性は本当になかったのか? 
 ボールになるのが怖かったのはわかる。
 だけど、それじゃあダメなんだ。

 ホームランを打たれたら4点入る。
 押し出しなら1点だ。
 いずれにしても、負けは負けだ。


 でも、1点ならば
 ピッチャーの自責点は最小限で済むけど、
 4点取られれば防御率も大きく悪化する。


 その印象の違いでピッチャーは
 二軍落ちを言い渡されるかもしれない。
 それによって給料も下がるかもしれない。


 お前は、そこまで考えたのか?」

この言葉は本当に凄いです!!!

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「ポスト古田敦也」を目指して始まったプロ野球人生

川本は、球史に残る名捕手・古田敦也と
同時代に東京ヤクルトスワローズに在籍し、
正捕手の座を虎視眈々と狙っていた。

しかし、
ついにレギュラーを獲得することはできず、
千葉ロッテマリーンズ、そして
東北楽天ゴールデンイーグルスと渡り歩き、
12年間の現役生活を終えた。

彼は今、アパホテルの
法人営業チームリーダーとして奮闘している。

「現役引退後すぐに、
 たまたまアパホテルの専務と知り合い、
 その2日後に、“アパに興味はないですか?”
 と連絡をもらって、“これも何かの縁だ”
 と思ってホテル業界に飛び込むことを決意しました。
 自分でもまったく予期せぬ展開に驚いていました(笑)」  

現役時代は3球団に所属して、
わずか345試合の出場にとどまった。

12年間で放ったヒットは147本、
ホームランは19本。

成績だけ見れば、決して突出した記録ではない。

それでも川本は、古田の薫陶を受けながら、
懸命にプロ野球選手としての日々を生きた。


現役時代に心がけていたこと、
そしてホテルマンとして考えていることを聞いた――。  

***  

亜細亜大学時代、2学年上で
後にプロで活躍する木佐貫洋(元巨人など)、
永川勝浩(元広島)といった好投手たちと
ともに研鑽を積んだ。

川本がプロ入りしたのは2005(平成17)年のことだった。

広島出身だったため、
幼い頃から熱烈なカープファンだったが、
「プロ野球選手になれるのならどの球団でもいい」
と考えていた。

「だからヤクルトに指名されたのは嬉しかったです。
 当時は古田さんがまだ現役でしたけど、
 すでにベテランの域に差しかかっていたので、
 “チャンスはあるぞ”と思っていました。

 まずは二番手キャッチャーとしての地位を確立すること。
 入団したときの目標はそこに置いていました」  

この頃のスワローズにとって
「ポスト古田」は喫緊の課題だった。

二番手候補の筆頭に小野公誠がいて、
その後を米野智人、福川将和ら若手捕手が続く。
熾烈な正捕手争いの渦中に川本は飛び込んだのだった。

プロ2年目、若松勉監督が退任して
古田が選手兼任監督となった。

「兼任」という肩書きはついていたものの、
古田新監督にとっての最重要課題は
「ポスト古田の育成」にあった。
川本にいきなりのチャンスが訪れた。

 

宮本慎也からの救いの言葉、「困ったときはオレを見ろ」

「確かにチャンスではあったんですけど、
 二番手候補の筆頭は肩が強い米野さんでした。

 古田さんが、米野さんに期待しているのが
 伝わってきましたけど、
 僕は足に自信もあったので代走でもいいから、
 何が何でも一軍に残ることを目指していました」  

川本のひたむきな努力は報われた。

二軍で正捕手の座をつかむと、
チャンスをもらった米野が
なかなか結果を残すことができない中で、
少しずつ川本の一軍出場機会も増えていく。

「最初、“米野さんをメインで起用する”
 となったときも、気持ちは折れなかったし、
 “負けないぞ”という思いはずっと持っていました。
 プロ3年目となる07年7月に
 初めて一軍でスタメンマスクをかぶりました。
 古田監督自ら登録抹消して、
 僕を一軍に上げてくれて、即先発起用でした。
 あのときは本当に緊張しました……」  

この日、川本はベテラン・宮本慎也から、
こんなアドバイスをもらっている。

「試合前に緊張していたら、こう言われました。
 “緊張するなと言っても絶対に無理だろう。
 もしも、いっぱいいっぱいになってしまったら、
 オレを見ろ。何かあったら、
 ショートに打たせろ”って。
 この言葉に、本当に勇気づけられました」  

ベンチでは古田監督が、
グラウンドでは宮本が見守る中、
川本はこの試合で、打っては
プロ初安打初ホームランを放ち、
守っても先発の館山昌平を見事にリードして
完封でチームに勝利をもたらした。
文句のつけようのないデビューだった。

「二軍で頑張ってきたことが、
 そのまま一軍でも出せたので、
 “これで一軍でも通用するのかな?”と思いました。
 でも、その約1カ月後、
 8月19日のジャイアンツ戦で、
 古田さんに厳しく叱られました」  

すでに17年が経過しているにもかかわらず、
川本は今でも「その日」を記憶していた。


「8月19日」に、一体、何が起こったのか? 

「この日、8回までは完璧に抑えていて
 3対2でリードしていました。
 9回に抑えの館山さんに交代して、
 逃げ切りを図ったけど、
 先頭の小笠原(道大)さんに
 ホームランを打たれて、
 まず同点になってしまいました。

 そこから延長10回は満塁になって、
 一打サヨナラ負けの大ピンチを作ってしまいました」  

打席に入ったのは、
ジャイアンツの主砲・
阿部慎之助
だった。

 

古田からの叱責で、真のプロ野球選手に

結論から言おう。

この打席で阿部はサヨナラ満塁ホームランを放ち、
スワローズはあと一歩のところで
勝利を逃してしまった。

試合後、川本は古田に呼ばれた。

 「満塁の場面で、阿部さんのカウントが
 3ボール1
ストライクとなりました。
 もう1球ボールを投げれば
 押し出しでサヨナラ負けです。
 そこで僕はストレートを要求しました。

 もちろん、阿部さんも
 ストレート狙いだとわかっていました。
 それでも、相手も打ち損じるかもしれないし、
 “押し出しよりはいいだろう”と腹を括って
 ストレートを要求したんです」  

そして、古田は次のように続けたという。

「あの場面、ストレート以外で
 打ち取れる可能性は本当になかったのか? 
 ボールになるのが怖かったのはわかる。
 だけど、それじゃあダメなんだ。
 ホームランを打たれたら4点入る。
 押し出しなら1点だ。
 いずれにしても、負けは負けだ。

 でも、1点ならば
 ピッチャーの自責点は最小限で済むけど、
 4点取られれば防御率も大きく悪化する。
 その印象の違いでピッチャーは
 二軍落ちを言い渡されるかもしれない。
 それによって給料も下がるかもしれない。

 お前は、そこまで考えたのか?」  


この時の古田の言葉を、改めて川本が振り返る。

「深い言葉でした。
 僕は、そこまで考えてリードをしていませんでした。
 
 だから、
 “もしも押し出しだとしてもいいんですか?”

 と尋ねたら、古田さんは“いい”と断言しました。
 同時に、
 “この人は結果でモノを言わない人なんだ”
 と再認識しました。

 この言葉があったから、
 僕は気持ちを引き締め直して、
 その後のプロ野球人生を
 何とか送ることができたのだと思います」  


このときこそ、
川本が真のプロ野球選手となれた
瞬間だったのかもしれない。


「古田さんからは多くのことを教わりました。
 “裏をかくなら序盤にして、
 終盤には冒険をするな”と言われたことも
 よく覚えています。

 たとえ抑えることができても、
 そこに根拠がなければ叱られたこともあります。

 プロ3年目に、古田さんから
 直接いろいろな指導を受けたことが、
 その後の僕の財産となりました」  


順調に選手人生を歩んでいると思えた。

しかし、
その後はさまざまな故障に苦しめられ、
川本は苦難の道を歩んでいくことになる――。


阿部慎之助にサヨナラ満塁本塁打を、古田敦也監督は激怒…元ヤクルト捕手が語る、初めてプロの厳しさを知った瞬間(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース