「生き延びるためではなく、死の覚悟によって、
結果的に命を救われたんです」
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2016年、長崎の被爆者らの間で、
あるニュースが話題になった。
長崎原爆資料館に展示され、被爆の悲惨な実相を伝える
写真「黒焦げとなった少年」の身元が浮上したという。
知人から伝え聞いた兵庫県加東市の川上博夫さん(85)は、
それが旧制瓊浦(けいほ)中の同級生だったと知り、言葉を失った。
長崎に原爆が投下された73年前の8月9日、
普段通り登校した少年は、
素性が分からなくなるほど無残な姿で亡くなり、
川上さんは学校を休んで命を拾った。
わずかな差で分かれた生死をどう受け止めるべきか、
川上さんは今も問い続ける。
【写真】「一人一人の人間が、その他大勢の遺体の一つになった」被爆体験を振り返る川上博夫さん
英語の試験日だった。
平時なら夏休みのただ中だが、
2年生になれば軍需工場に動員されるため、
川上さんら1年生は詰め込みで授業を受けていた。
だが、川上さんはきょうだいと家にいた。
朝、空襲警報が鳴り、
母の「学校に行かんでいい」との言い付けに従ったためだ。
早めの昼食で、炊いたカボチャに箸を伸ばしていたとき、
空の色が黄、紫と変わった。
「ドーン」。ごう音と爆風に、両手で目と耳を押さえ、身を伏せた。
自宅は爆心地から約3・7キロ、
勤務先にいた父も含め家族全員が無事だった。
一方、瓊浦中は爆心地から約800メートル。
同窓会の役員によると、原爆によって、
1年生約300人中114人が亡くなったという。
その一人が、谷崎昭治さんだった。
登校後の詳しい状況は分からず、遺体も見つかっていない。
下宿先で見つかった水筒が、遺骨代わりに墓に納められた。
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クラスが違ったため、名前を聞いてもぴんとこなかった。
ただ、被爆による甲状腺機能低下症に悩まされながらも
戦後を生き抜いてきた自身と、
13歳で途絶えた谷崎さんの人生を重ね合わせると、
言葉が見つからなかった。
同じように登校し、被爆した同級生の姿を思い出した。
全身の皮膚がただれ、赤く腫れ上がっている。
かすかな呼吸。群がるハエ。
家族がすすり泣きながら、うちわであおいでいた。
分かれた生死をどう捉えるべきか。
川上さんは絞り出すように「運命のあや」と表現し、
あの日、登校をやめさせた母の指示をかみしめる。
原爆投下の10日ほど前、長崎は空襲に遭い、
自宅と家族を失った父の同僚が川上さんの家に身を寄せていた。
母は、一人生き残った同僚の悲しみを肌で感じていたという。
「母が私を登校させなかったのは危険だからではない。
『死ぬときは家族一緒に』との思いからだった。
生き延びるためではなく、死の覚悟によって、
結果的に命を救われたんです」
<<出典元>>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180809-00000000-kobenext-l28