チッソ水俣工場が引き起こした水俣病。
勤め人時代、チッソの方々とは、
様々な会合でご一緒する機会がありましたが、
今なお、その痕跡が消えることはありません。
魚を取り、魚を食べる、
ごく普通の生活で水俣病に侵されていった人々を想い、
私たちが成すべきことを、
今一度、考えることが大切だと深く思います。

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今年も5月1日になりました。
水俣病の犠牲となり、2年前に亡くなった母スミ子の魂も
今日はここで見守ってくれていると思います。
母さんと、水俣病の犠牲となった多くの皆さまに対し、
祈りの言葉をささげます。
母さん…今は何をしていますか。
弟の貢(みつき)には会えましたか。
たくさん抱っこしてあげていますか。
父さんと夫婦で「うまか-」て
好きな魚やビナを食べてますか。
私たちが生まれ育った(水俣市)明神(町)は
水俣湾と不知火海に挟まれた岬で、
日常に工場の音が響き渡っていましたよね。
そんな中、
私が2歳になった昭和28(1953)年には、
私が原因不明の病にかかり、
貢は生まれて間もなく亡くなった上、
父さんも私が3歳の時に亡くなりましたね。
後になって、父さんは劇症型水俣病、
私は小児性水俣病、
新たに生まれてきた弟、雄二は
胎児性水俣病ということが分かりましたね。
魚を取り、魚を食べる、
ごく普通の生活で水俣病に侵されていったのです。
母さんは、どんな時でも苦しみや悲しみに負けず、
頑張り屋で、親切で、人の喜ぶ姿が大好きでしたね。
悔しく苦しい耐え難い思いだったと、
親となった今では母さんの気持ちが分かるような気がします。
私は、中学時代までを病院で過ごし、
縁あってチッソ開発で、母さんに心配をかけながらも
定年まで41年間働きましたね。
3人の宝子にも恵まれ、その子たちも立派に成長し、
今では6人の元気いっぱいの孫たちがいるおじいさんになりました。
父さん、母さんが尊い命をつないでくれたのです。
母さんは、
雄二たち胎児性水俣病の人たちの将来を
最期の最期まで心配していましたね。
雄二は、最近は好きなすしも喉を通らず
年々衰える不自由な身体でも、
食べたい、自分の足で歩きたいという望みを捨てず、
沢山(たくさん)の方に助けてもらいながら、
歯を食いしばり生きています。
母さん、人前で話したことがない
私が今日ここで話すとは夢にも思わなかったでしょう。
いま私たちに何ができるのか?
年月が流れても決して忘れてはなりません。
母さんが語り部になったのは、
「妻として、母として、
同じ苦しみを世界中の女性に味わってもらいたくない」
との思いからでしたね。
もう二度と同じような悲劇で
多くの人が苦しまないようにどうかどうか見守っていてください。
「一番苦しんだ人が、一番幸せになれる」
その強い心をもって、
私たちは水俣病という宿命を使命に変え、
困難に負けずに生きる姿で、
人に勇気を与える人生をこれからも歩んでいきます。
最後に、水俣病で犠牲になられた
多くの方のご冥福をお祈りいたします。
どうか安らかにお眠りください。
平成30(2018)年5月1日
水俣病患者・遺族代表
金子 親雄
=2018/05/02付 西日本新聞朝刊=
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/413099/