本日一発目は先日よそで寄稿したエッセイを転載いたします。まぁ、過去のBlog記事と前半かぶってて申し訳ないんですが、後半に関してはオリジナルなので安心して読んでいただけると嬉しいです。
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就職難が叫ばれるこのご時世、若者がかわいそうだ論が様々な知識人によって叫ばれている。そんな風潮に待ったをかけているのが海老原嗣生さんだ。彼は著書にてデータを駆使し、ロジカルに若者論や雇用問題に切り込んでいる雇用問題のスペシャリストだ。そんな彼と先日ご一緒させていただいた際、彼の膨大な背景知識や鋭敏に対話相手の意見に反応する様に全身に鳥肌が立った。そんな彼の著書の中で今一番注目を浴びているのが『仕事をしたつもり』(星海社新書)だ。
この本は、仕事を頑張っているつもりでもたいした成果が出ていない「仕事をしたつもリーマン」に向けて書かれたもので、本質を無視した意味のない労働からの脱却を訴えたものである。私がこの本の中で一番興味深く感じた部分は、会議での資料の使い方の部分である。多くの会議では何枚もの資料が用意され、会議ではその資料をひたすら読み合わせ、説明する側は資料の読み上げ・説明される側は早々と資料を読み終えたのに長々と説明を聞かねばならないという両者にとって不毛な営みがなされているという。私はこの現象は会社の会議のみならず日本全国ではびこっていると確信しており、教育においても例外ではないと考える。
用意したプリントや教科書を読み合わせ、簡単に解説して授業を済ませる。こんな光景、どこかで見たことがあるだろう。小中高大のどこでも見られる光景である。教育においてこそこのような「授業をしたつもり」からの脱却を図るべきではないか。個人個人が読めば済むことをなぜ教師と生徒全員が一緒になって読まねばならぬのか。読んでおいてくださいの一言で済む話であろう。その一言で読まない者は、読み合わせをしてもしっかりついてきて読むとは考えにくい。
とすれば、教師には教科書や用意したテクストを超えて授業を設定しなければならないことになる。
教科書の中身をわかりやすい言葉でパラフレーズすることはもちろん、その事柄の背景知識や関連事項の説明など教えるべきことはいくらでもあるだろうし、それこそ教師がひたすら教科書を読むような一方通行の授業ではなく教師の発問に生徒が応じていく双方向性のある授業がなされてもよいのではないか。そのような工夫がなされないのであれば、書を読めば誰でも授業内容と同じものを身につけることができるのであるから、授業の存在意義がなくなってしまう。
授業をして生徒を成長させることが教師の生業であるなら、「失業」させられないためにも日々の研鑽・工夫が必要である。
ーーーーーーーーー以上転載ーーーーーーーーー
いかがでしょうか?
最もこの文章、私の中にある
・授業は第一に教科内容を生徒に身につけさせるためのもの
・勉強とは本来自学自習がベースである
という思想が下敷きになっております。
そのため、教科書やプリントの読解はまず生徒が主体となって行うべきであり、その上でプラスαの説明や知識を教師から授業で得るべきではないかと私は考えております。
もちろん、その前提となる自学自習させる力をつけるというのは教師が何よりも力を注がなければならないところなんですがね。
それではこれから現役の教員の方々との勉強会に行って参りますので、このエッセイをぶつけてきたいと思います笑
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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