梅雨の季節を迎え、わが家の周りも毎日何がしかの変化を見せてくれます。
ある朝、出勤しようと玄関の外に出た時、足元にアゲハが1頭うずくまっていました(蝶は匹や羽でなく頭が数える単位だそうです)。
よく見ると、飛ぼうとしているのだが、うまく飛べない。産卵を終えて力尽きたのかもしれない。あとは卵に後世を託して死ぬのを待つだけなのか。それでも、「頑張れ、アゲハ!最後の力を出し切るんだ!」なんて勝手に思いを入れて、昭和のスポ根精神などに一瞬浸りながら、家を後にしました。まあ、もう駄目なんじゃない、なんていうのが本当の思いだったのでしょう。
ところが、翌日見かけると生き生きとして飛んでおりました。人の想像の及ばぬ生命力の強さを感じました。猫の額のような土地ではあっても無数の生命を包んで育んでいるのですね、と神様の創造の力に感激したりしております。まあ、ダンゴムシやナメクジは歓迎したくはないし、今年はカメムシが発生しやすい気候にあると報じられてはいますが。
そんな人の身勝手をも覆って自然は存在します。新型コロナウイルス感染の影響で人間社会は目に見えないウイルスに振りまわっされ放しのここ数か月でしたが、花は咲き,実も成ろうとしております。鳥や昆虫などは繁殖にいそしみ、たぶんわしの気づかないところにしっかり卵を産み付けているのでしょう。この数か月間、人は、というか人間社会はいったい何を学んできたのでしょうか?
昨日届いた雑誌の中では経済性、効率性ばかり追求してきた社会から人間の内面に対する関心が深まってくるのではないか、という予測がされていました。その記事においてはそこらへんは宗教の果たす役割だ、と述べられていましたが、素人目にも金もうけの道具としか見えない既存の宗教の多くにこれを解決する、あるいは人々を導く役割を任せて構わないのでしょうか?なんて疑問が湧いてきます。
私自身は純粋な気持ちで宗教に解決を求めても、がっかりさせられるようなことが多いように思うのですけれども。でも、ひょっとしたら本物は残されているかもしれない、っとどこかで信じていたい気持ちもあります。