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  三が日には帰ってこなかった次男が帰省してきた。ちょいと水戸に用事があったので弘道館を見学した。彼がまだ高校生だった2年前にも立ち寄ることがあったのが、その時は2011年の東日本大震災からの修復が完了しておらず、中に入ることはできなかった。
 今回は晴れた土曜の午後で、梅の花にはまだまだ早いが、かえってそれが幸いしたのか、がら空きだった。

 弘道館の中で最も心惹かれるのは「至善堂」と呼ばれる奥の間で、大政奉還の後、将軍慶喜がここで謹慎し朝廷に恭順の態度を示したことで知られている。
 ここには裏の鹿島神社の要石に記された和歌の拓本が展示されている。

 ゆく末も 踏みなたかへそあきつ島 大和の道そ要なりける (原文は万葉仮名)

 水戸学が尊皇の道を説いている以上、朝廷に弓を弾くことは許されず、ゆえに官軍(薩長)と交戦することは慶喜には父の斉昭から幼いころに教え込まれていた「大和の道」に反することであろう。「公武合体」に行き詰まり、「倒幕」の声が次第に大きくなってくる中で将軍についた慶喜にとっては究極の選択を強いられたことになるが、それが江戸の無血開城につながり、徳川の犠牲によって維新の世が開けた、とはよく知られていることである。
 もし、慶喜が先祖(水戸家)の遺訓に背いて徹底抗戦したならば、武士の面目は立つかもしれぬが、日本国は内乱状態になり、英米仏露といった欧米列強の干渉侵略を招くことは目に見えており、その行く末が「列強の植民地」になってしまうことは近隣諸国の事例を知ればよくわかる。
 また、その頃の大坂城代は笠間か土浦の殿様が任命されることが多く、両藩とも藩主は斉昭の子、つまり慶喜の兄弟ということになる。

 そんな話を成人式を迎える次男にした。「男話だねえ」なんて悦に入っているだけではない。徳川幕府はそれで収まったかもしれない。が、水戸藩は収まらなかった。
慶喜は旗本三千騎をはじめとする徳川宗家の当主であり、水戸藩主は別にいたけれども、藩論はまとまらず、内輪もめ状態になってしまった。
結局水戸藩が茨城県になったときの初代知事に任命されたのは山岡鉄舟その人だった。全国的には尊王攘夷のメッカ、維新の魁だなんてもてはやされているきらいもあるが、足元では結構グダグダやっていたんだよね、水戸って。
 だからあちこちに当時の弾痕が残されているんだよね。
 
 ま、歴史には光と影があるから、一面からばっかり見るのはなんだろうね、と語り合ったのだけれども、弘道館そのものは訪れる度に背筋が伸ばされ、凛とした気分にさせてくれる。この世の真賀幸かにかくあれ、って気持ちになる。
 ついでに書くと、私自身の浅はかな見方かもしれないけれども、水戸学は結構劇薬で、カンフル剤としてたまに匂いを嗅ぐといい刺激になるのだけれども、のめりこんで中毒になると原理主義に陥る危険性が秘めれれている。
 だから下手の横好き程度にかじっていれば、だなんて思うのですけれどもね。