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  幕末の水戸藩は尊王攘夷のメッカだったそうだ。吉田松陰も深い感銘を受けている。これは多くの人の知る事実と言っていいだろう。
 ただ、見過ごしてはいけないのは歴史は時に大きな転換を迎え、昨日の正統が明日は異端となることもありうるってことで、松陰が水戸を去ってほどなく「ぺルリ来航」が日本の運命を翻弄する。
 水戸の藩学、つまり弘道館は「忠孝一致」の精神を説いたが、松陰の内面は「忠ならんと欲すれば孝ならず」という葛藤に覆われてくる。
 同時に彼の出身である長州も激動の荒波に飲み込まれてしまう。
解決はどこにあったのであろうか?
 歴史を学ぼうとするものは括目せよ、「攘夷」から「開国」、「公武合体」から「倒幕」への変遷を。
 松陰自身は志半ばにして刑場の露と消える運命になるが、彼の志はやがてそれを継いだ者たちにより「維新の大業」となって新しい時代を開くことになる。
 一方、徳川の名を持つ水戸藩は思想を発揮する場所を失い、自滅していく。
明治になり、水戸藩の領地を引き継いだ茨城県の初代知事は幕臣山岡鉄舟だった。彼ほどの人物を用いらねば、収まりがつかなかったのかもしれない。

 京の着倒れ 大坂の食い倒れ(杭倒れ) に対して水戸は「議論倒れ」といわれるそうだ。そんな土地でかくも力強いフレーズが生み出されたものだ、と不思議に思ってしまう。言葉の強さと裏腹にもろさも感じてしまうんですよね、純粋すぎて堪えられないだろう、って。果たして歴史はその通り動いてしまったのは必然なのであろうか、結果論でしかないのであろうか?
 徳川時代って、形式美の完成度の高さでいえば、かなりのもので、21世紀に生きる我々の生活様式の原点が結構集約されているのは言うまでもない。
 明治期の文明開化、極端な西洋文化の流入をきちんと消化しえたのも、江戸時代のベースがあってこそで、水戸藩は滅びても、近代茨城県は様々な発展を遂げている。わしはよく知らないけれども。
 水戸って光と影が極端になっているから、どう評価していいのかわしにはわかりません。