党争に振り回された幼少期
英祖の父・粛宗 (スクチョン) は生涯6人の息子を得たが、いずれも母親は側室だった上、そのうち4人は早世し、肅宗の死の当時、残っていたのは禧嬪張氏 (ヒビンチャンシ) の息子の世子 (畇/ユン/ギュン/後の景宗/キョンジョン ) と淑嬪崔氏 (スクピンチェシ) が産んだ延礽君 (昑/後の英祖) だけだった。
粛宗の長男として生まれた世子は、当時寵愛していた禧嬪張氏が産んだということで粛宗を大いに喜ばせ、わずか3歳で世子に册立された。禧嬪張氏は息子の出産後、王妃に昇格するが、それから5年後の1694年、王妃から再び側室に格下げされ、さらに1701年、処刑される。
英祖が生まれたのは禧嬪張氏が王妃から側室に格下げされた年で、兄・世子より6歳年下だった。母親の淑嬪崔氏はもともと宮中で下働きをするムスリ (使用人) で、その美貌から粛宗の目に止まり、英祖をみごもった。
禧嬪張氏の死後、粛宗は世子ではなく延礽君を跡継ぎにしたいと思うようになるのだが、母親への愛情の切れ目が息子への愛情の切れ目になったのか、世子より延礽君のほうがすぐれていたのか、あるいは禧嬪張氏わ支持する南人派の失脚で南人派の子である世子が邪魔になったのか、その理由は明らかではない。
この頃、西人が中心だった朝廷も、世子支持派の少論派と延礽君支持派の老論派に分かれて激しく対立。肅宗と老論派は世子に代理聴政を任せ、失敗させて廃位に追い込もうとする、だが計画は不発に終わり、廃位がかなわないまま1720年、世子が即位する。第20代景宗である。
● 家系図 ●
老論派の英祖即位計画
景宗の即位で、本来なら延礽君の王位継承は立ち消えになるはずだった。というのも、王位は父から子に継がれるもので、兄から弟への継承は正統とはいえないからだ。
しかし、老論派は諦めなかった。少論派を支持基盤とする景宗が即位したとはいえ、当時の朝廷は老論派の天下。彼らは王を王とも思わない態度で景宗を圧迫し、即位の翌年には延礽君を世弟 (セジェ) 、すなわち "弟の世継ぎ” にするよう上奏、わずか一夜で強引に認めさせてしまった。
当時、景宗には息子がいなかったため、延礽君を世継ぎに主張することができないわけではないが、それはあくまで非常手段。実際、景宗の妻・宣懿王后 (ソニワンフ) は王族から養子を迎えて後を継がせる考えだったという。しかし、老論派の強引な延礽君擁立でそれも水泡と帰した。
老論派が立てた延礽君即位計画はこうだ。まず延礽君わ世弟に冊立し、次に世弟の代理聴政を要求。そして景宗が世弟への譲位を宣言し、晴れて延礽君が即位する┄┄┄。実は、これは第3代太宗 (テジョン) が即位する際、その名分を作り上げるために取った手法。すなわち太祖 (テジョ/父) → 定宗 (チョンジョン/長男) → 太宗 (テジョン/五男) にならったものだった。
世弟冊立を成功させた老論派は、次なる段階、すなわち世弟の代理聴政を王が幼少だったり老齢や病で政事を執れなかったりするときに行うもので、景宗にそれをそれを要求するのは不敬も甚だしいことだった。ところが、景宗はこれをあっさり承諾。それどころか「国事の大小わ問わず全て世弟に任せる」と宣言する。これには老論派も驚いて、慌てて撤回を要求。世弟も、聴政はできないと繰り返し辞退した。
ここで老論派の計画に狂いが生じる。自分たちが上奏した代理聴政を自ら撤回要求することで老論派の立場が弱まってしまったのだ。これをきっかけに少論派の反撃が始まり、1721年12月、景宗の師匠で少論強硬派