運命と戦った高麗最後の改革王
■ 元の人質から巡り巡って即位へ。
1330年、第27代忠粛 (チュンスク) 王の次男として生まれる。同じ年、兄の忠惠 (チュンヘ) 王が28代王として即位した。当時、高麗は元の干渉下にあり、高麗王室に生まれた男子は幼少時に人質として元に送られ、元の皇女と結婚していた。恭愍王もまた、1341年に元に送られた。幼いながらも、自身の境遇をしっかりと理解し、いつか高麗を建て直すという信念を持っていたという。
一方、兄の忠惠王は民に重税を課し、遊興にふけるなど道楽三昧で1344年に元によって廃位させられる。元はその後、忠惠王の長男でまだ8歳だった忠穆 (チュンモク) 王をわ29代王として即位させるが、 わずか12歳で死亡。次いで翌年、その弟、忠定 (チュンジョン) 王30代国王として即位させる。だが忠定王もこの時わずか12歳。母親の禧 (ヒ) 妃尹 (ユン) 氏とその一族による政治介入や外敵の侵入に危機感を抱く臣下の訴えで、廃位させ、1351年、恭愍王を31代王として即位させることを決める。
王位に就くため帰国した恭愍王は、1349年に妃として迎えた元の皇族、魏王の娘、魯国 (ノグク) 公主を伴っていた。政略結婚ではあったが2人の仲睦まじさは格別で、即位後、恭愍王が反元政策を始めた時も、王妃は黙って夫の意に従った。
■ 反元政策を推進。
恭愍王が元で暮らした10年の間に、中原では各地で反乱が起こっていた。恭愍王即位の1351年には紅巾の乱が勃発している。大陸の情勢をよく把握していた恭愍王は、元が急速に力を失いつつあるのを見て、一気に改革を断行する。元の年号や弁髪を改め、1356年には、高麗の朝廷を牛耳っていた元皇室の外戚、奇轍 (キ・チョル) をはじめとする親元派を粛清。次いで、1258年以降、元の直轄地となっていた双城総管降わ武力回復する。
元の勢力を一掃した恭愍王は、側近の辛ドン (シン・ドン) と共に内政改革にも着手する。貴族が権力を盾に私有化してしまった土地を本来の所有者に返し、奴婢解放の法制度を整えるなどして民衆から高い支持を受けるのである。だが貴族たちの抵抗は強く、その上、1359年の紅巾賊侵入や、その後の度重なる倭寇の侵攻によって、国は外戚の脅威にさらされる。国家存亡の危機に見舞われ、元と協力して外戚を排除する機運が高まり、親元派の勢力が盛り返し、改革は頓挫してしまう。
■ 魯国公主の死と非業の最期。
悲願だった反元政策を翻して元と連合するほど、恭愍王にとって外敵の侵入は脅威だった。さらに、追い打ちをかけるように新たな悲劇が襲う。1365年、寵愛していた妻の魯国公主が難産の末に命を落としてしまうのである。婚姻16歳にしてようやく懐妊の報を聞いた恭愍王はことのほか喜んでいた。そこに届いた悲報である。恭愍王の衝撃は激しく、すっかり悲嘆に暮れてしまい、毎日仏前で王妃の冥福を祈って過ごし、政治にも改革にも全く興味を失ってしまう。
そして1371年、政務を任された辛ドンが失脚すると、改革のともしびは消え、恭愍王は失意の中、晩年を酒や淫行に溺れて過ごすようになる。貴族の子弟たちで組織した「子弟衛 (チャジェイ)」と呼ばれる侍従との男色にふけっていたとも伝えられる。
「子弟衛」は王宮で妃嬪との間に問題を起こしたりした。これを王に進言した宦官・崔萬生 (チェ・マンセン) は、王からこの事実を知った者全てを殺すと言われ、先手を打って子弟衛の隊員らと共に恭愍王を殺してしまう。事はすぐに発覚し、崔萬生も処刑されて恭愍王の治世は幕を下ろす。