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王朝交代後も権力中枢で生き残った策士
■ 漢陽への遷都を主張。
高麗の忠臣・河拱辰 (ハ・ゴンジン) の子孫として生まれた河崙は、李仁任 (イ・イニム) の実兄・李仁復 (イ・インボク) 、次いで李稽 (イ・セク) の門下で修学し、鄭夢周 (チョン・モンジュ) や鄭道伝 (チョン・ドジョン) らの後輩となる。19歳で文科に及第すると、李仁復に気に入られ、彼の弟・李仁美 (イ・インミ) の娘と結婚。実兄でさえ敬遠した李仁任一派に接近し、知恵を吹き込み気に入られる。1369年、急進的な改革により権門勢族の目の敵となっていた辛ドン (シン・ドン) を攻撃するため、彼らの庇護を受け官職を得た役人を弾劾するが、逆に辛ドンに官職を赦免される。辛ドンの処刑後、復職した。
李仁任失脚後の1388年、新進士太夫の一員として崔瑩 (チェ・ヨン) の遼東攻撃を反対して京畿道楊州 (ヤンジュ) に流刑にされるものの、李成桂 (イ・ソンゲ) の威化島回軍により官職に戻り、易姓革命を支持して朝鮮建国を補佐した。1392年の李成桂即位後、鶏龍 (ケリョン) 山への遷都に反対し、鄭道伝とともに漢陽 (ハニャン) への遷都を主張。だが、1396年、明の太祖・洪武帝が鄭道伝を召喚する事件が起こり、鄭道伝との関係に亀裂が入る。鄭道伝の書いた外交文書が不遜だというのが召喚理由で、鄭道伝は明行きを拒絶するが、河崙は鄭道伝を差し出すべきだと訴えた。結局、河崙が代わりに明に行って洪武帝の誤解を解くものの、鄭道伝の恨みを買い、地方官に左遷される。
■ 李芳遠の策士として活躍。
1398年、第1次王子の乱当時、忠清道の都観察使 (トグァンチャルサ) に復職した河崙は漢陽に軍を派遣、李芳遠 (イ・バンウォン) を助ける。その手柄により、一等功臣、晋山君 (チンサングン) に奉じられる。さらに、同年の洪武帝崩御に際して明に行き、2代定宗 (チョンジョン) の王位継承の承認をもらい帰国した。1400年の第2次王子の乱でも李芳遠を支え、彼の最側近として門下右政丞 (ムナウジョンスン) に昇進するなど、実権を握るまでになる。李芳遠が即位すると佐命 (チャミョン) 功臣一等に奉じられ、太宗 (テジョン) を補佐して王権を強化する制度改革を指導した。1402年には、明の永楽帝の即位を祝う使節に任じられ、朝鮮王朝の即位を意味する誥命印章をもらって帰国するという大役を務めた。一方、太宗との密室会談で政策を推進したことが批判もされた。領議政府事 (ヨンイジョンプサ) を歴任した後、70歳で引退し、太宗廟に合祀された。号は浩亭 (ポジョン) 。諡号は文忠 (ムンチュン) 。
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