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今も尊敬される名家出身の清廉
■ 名門貴族の息子。
1316年、名家の息子として生まれた崔瑩は、体格はがっしりとたくましく、腕力が人並み外れており、文臣の家系ながら武将の道を選んだ。楊廣道 (ヤングァンド / 現在の忠清道) の都巡問使 (トスムンサ / 地方軍事司令官 ) の配下で倭寇を討伐。朝廷の近衛兵である于達赤 (ウダルチ) に任じられたのを皮切りに、恭愍 (コンミン) 王元年の1352年、専横を振るう親元派の奇氏を粛清し、王を脅して政権を手に入れた趙日新 (チョ・イルシン) を滅ぼすなど、武勇で名声を挙げていた。
■ 紅巾戝・倭寇の討伐。
1354年、約百年にわたって元に支配されてきた高麗は、元に反旗を翻した紅巾戝の討伐を元から要請。崔瑩は大護軍 (テホグン / 大将軍) として元に出兵し、紅巾戝わ鎮圧。後に、高麗な侵攻してきた紅巾戝も打ち破っている。1356年、元の衰退に乗じて反元に転じた恭愍王の命により、鴨緑江西域の軍事基地と、東北面 (現在の咸鏡南道) の双城総管府を元から奪還した。このような高麗の態度を不遜に思った元は、恭愍王の叔父である徳興 (トックン) 君を王位に就けようと崔儒 (チェ・ユ) に高麗を侵攻させたが、崔瑩率いる高麗軍がこれを撃破した。
倭寇の討伐でも崔瑩は活躍した。1358年、倭戝体覆使 (ウェジョクチェボクサ) に任命された崔瑩は、吾乂浦 (オイェポ / 現在の黄海道長淵 / チャンヨン) に侵入した400もの倭船を撃破。その後も、略奪を行う倭寇を数度にわたって撃退し、功臣として「鉄原府院君」 (チョルウォンブウォングン / ”出身地+府院君"を表す。府院君は王妃の父や正一品の功臣に授けられた爵号) の名が与えられ、後に「安社〈アンサ〉功臣」 (国家を安定させた功臣の意味) の号も受けた。こうして数々の武功を立てたことから政治的な発言権も増やし、門下侍中 (ムナシジュン) に任じられて中央政界でも力を発揮するようになっていった。
■ 威化島回軍と処刑。
禑 (ウ) 王の後見人となって李仁任 (イ・イニム) 一派を排除し政権を握った1388年、元に代わって中国を統一した明が、かつての元の領地の返還を高麗に通告してきた。そこで禑王と崔瑩は、遼東半島を支配下に置くという実力行使を決める。前線指揮を担った李成桂 (イ・ソンゲ) はこの遼東征伐に反対したが、総司令官の崔瑩は遠征を断行。ところが、中朝国境を流れる鴨緑江の河口に位置する威化島まで到着した軍は、侵攻をやめて都・開京 (ヘギョン) に引き返してきた。反撃もむなしく、崔瑩は李成桂一派に捕らえられ、高峰 (コボン / 現在の京畿道高陽 〈コヤン〉) に送られた後、73歳で処刑された。李成桂は、人となりが立派だった崔瑩の殺害は「本意ではない」と述べ、朝鮮建国後、崔瑩の罪はけされ、「武愍 (ムミン)」の贈り名が与えられた。
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