閑中録 (ハンジュンノク) を著した正祖 (チョンジョ) の母
■ 米びつの中で息絶えた夫。
漢陽 (ハニャン) の居平洞 (コピョンドン / 現在の鍾路区平洞 / チョンノグピョンドン) で成均館 (ソンギュングァン) の儒生・洪鳳漢 (ホン・ボンハン) の次女として生まれる。1743年、9歳のとき、同い年の世子の妃選びのため、禁婚令が発せられた。当時の洪家は王宮に着ていく服も用意できないほど貧困だったが、借金して何とか衣装を工面。処女単子 (花嫁候補の名前や四柱を書いた書類) を提出すると、出自にコンプレックスを抱えた英祖 (ヨンジョ) が 由緒ある家柄に引かれたのか、洪氏はすぐさま世子嬪に内定した。
翌年婚儀を挙げ、世子の生母・暎嬪李氏 (ヨンピンイシ) らの元で花嫁修業が始まる。礼儀正しく心根のきれいな洪氏はかわいがられたという。成人した15歳から夫婦生活が始まり、翌年の1750年、長男・ジョン (王へんに定 / 懿昭世孫 / ウィソセソン) が誕生するも2年後死去。だがその半年後に次男・祘 (サン) を出産し、これが後の正祖となる。他に2人の娘をもうけている。
だが2人の結婚生活は決して順調とはいえなかった。夫は15歳で代理聴政を任されたから、父・英祖 (ヨンジョ) がことごとく口を挟み、ミスをすれば激しく罵倒。夫は次第に心を病んでいった。とうとうカッとなるとやみくもに人を殺すようになり、妻や生母にも手に負えなくなる。1762年、夫が父王に自害を命じられ、最後は米びつに入れられた。父王と夫のはざまで洪氏はただ見守るしかなかった。28歳の初夏の出来事だった。
■ 養子にされた息子が国王に。
世子嬪でなくなった洪氏は、ひととき子連れで実家に戻ったが、ほどなくして世子が復位され、恵嬪 (ヘビン) の称号をもらい宮に帰る。英祖の気性を理解していた洪氏は真っ先に謝意を述べた。「私を恨んでいないことにほっとした」と英祖は感激し、洪氏の孝行を褒め、表彰したという。
夫亡き宮中で、心の支えは息子だけ。その矢先の1764年、英祖が息子の祘を、10歳で夭折した英祖の長男・孝章世子 (ヒョジャンセジャ) の養子にし、祘の母という立場も奪われた。さらに、自分より若い英祖の妃・貞純王后 (チョンスンワンフ) やその一族の陰謀で、父が弾劾される。
1776年、正祖が王位についたとき、洪氏は42歳になっていた。正祖は洪氏一族も含めて父の死に関わった人物を処罰。母子が対立する一面もあったが、正祖の母親への孝心はひときわ厚かった。王母なのにその立場にないない洪氏を、恵慶宮 (ヘギョングン) に格上げし、正祖の執務室からすぐの場所に洪氏の居室を建設。持病の腫れ物の薬を、医官に代わり正祖自ら塗ることもあったという。
61歳になる年の2月、正祖と共に7泊8日かけてかけて夫の墓のある水原華城 (スウォンファソン) へ行幸を行った。現地で還暦の大祝宴が催され、母をねぎらう息子からの贈り物だったことだろう。その後、洪氏は『閑中録』の執筆を始める。ところが、改革の道程で父の復権を進めていた正祖が突然逝去。孫の純祖 (スンジョ) が即位すると、貞純王后が摂政を行い、弟・洪楽任 (ホン・ナギム) が処刑されるなど、洪氏一族への攻撃が再開した。
だか貞純王后死後の1806年、貞純王后のいとこ・金漢禄 (キム・ハンノク) が逆賊として訴えられると、金氏一族か没落。処刑された弟の無念を晴らした。1808年には、洪鳳漢こそ米びつ事件の主犯だと上訴した李審度 (イ・シムド) の処刑により父の雪辱も果たす。正祖の死後もさらに15年生きた洪氏は、父の文集の刊行を見届け、81歳で永眠。思悼世子 (サドセジャ) と共に華城隆陵 (ファソン・ユンヌン) に埋葬されている。1899年、思悼世子が荘祖 (チョンジョ) となると同時に、洪氏も獻敬王后 (ホンギョンワンフ) に追尊された。
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■ 洪氏の自叙伝『閑中録』。
70年以上にわたる洪氏が人生回願録。ハングル文字で人物の心境や情感たっぷりに描かれ読み応えがあるだけでなく、当時の宮中文化を知る資料としても価値が高い。「仁顕王后 (イニョンワンフ) 伝」と共に、宮中文学を双璧をなす代表的な古典文学として、国語や歴史の教科書にも掲載されている。1795年に第1編を書き下ろし、1801年、1802年、105年と全4編を完成させた。執筆のきっかけは、おいの洪守栄 (ホン・スヨン) に一族の無念を晴らすように頼まれたことから、最初に筆を取ったのは、正祖による処罰が一段落した正祖末期。だが、貞純王后が摂政に乗り出し、弟が処刑され、すぐに亡き父・洪鳳漢こそ逆賊であると主張され始めたときだ。純祖の生母・綵嬪朴氏 (スピンパクシ) の要請で、一族の無実を純祖に訴えるために再び筆を走らせた。同時に正祖が罪人の子でないことも示そうとした。思悼世は精神的病を抱えていたから無罪、つまり責任能力がないことを主張するため、夫の病状を事細かに配したようだ。
■ 王の生母である側室を礼遇する称号“宮 (クン) "
“宮”とは、朝鮮後期、追尊王を含め王の生母に当たる側室の死後に付けられた称号で、彼女たちを祀る祠堂の名でもある。正1品の“嬪 (ピン) ”より高く、王妃と同等な品階だ。王の生母でありながら王妃になれなかった後宮に、それに準ずる礼遇をしたものだとされる。粛宗 (スクチョン) の後宮で景宗 (キョンジョン) の生母だった禧嬪張氏 (ヒビンチャンシ) の “大嬪宮 (テビングン) “ や、英祖の生母だった淑嬪崔氏 (スクピンチェシ) の“毓祥宮 (ユクサングン) ” が挙げられる。また追尊された思悼世子の生母・暎嬪李氏 (ヨンピンイシ) は “宣禧宮 (ソニグン) ” と称された。正祖の生母である洪氏の場合、思悼世子の正室だったが、息子の正祖が孝章世子の養子に入ったため“恵嬪”という世子嬪の品階のままだった。正祖は即位後、自分の母が妻の孝懿王后 (ヒョイワンフ) よりも品階が低いことを嘆き、“恵嬪宮” という号を与えたのである。
■ 妻が見た思悼世子の奇行。
「閑中録」の中の思悼世子は “猟奇的殺人を繰り返した精神病質者” に描かれている。洪氏の目撃談によれば、内官の首を斬ってその首を妻や女官に見せびらかしたり、寵愛していた側室・景嬪朴氏 (キョンビンパクシ) を殴り殺したことも。彼女との間には恩全君 (ウンジョングン) という息子がいたが、あろうことか満1歳を過ぎたばかりの恩全君までも井戸に放り投げた。赤ん坊はすぐに助け出され、一命は取り留めた。思悼世子の生母・暎嬪李氏も、何の罪もない女官や下人を「100人以上を殺害した」と証言している。後にも先にも、無実の人間を多く殺した王子は朝鮮王朝にはいない。思悼世子自身も、「カッとなると、人を殺すか鶏や獣をあやめないと気が収まらない」と英祖に打ち明けたり、「うつの症状があるが、(英祖に報告されてしまうため) 医官には言えないので、薬をこっそり送ってほしい」と義父の洪鳳漢に宛てて書いた書簡が見つかっている。
■ 息子からのプレゼント、華城への行幸。
正祖は13回華城に参っているが、1795年2月の洪氏の還暦祝いを兼ねた行幸は、随行員6000人以上、馬約1400頭という朝鮮史上最大規模のものだった。『園幸乙卯整理儀軌』によると、1日目に漢陽をたち、2日目に華城に到着、3日目に先祖に参拝して科挙試験を見学、4日目に思悼世子に墓参りをして軍事訓練を実施、5日目に華城行宮・奉寿堂 (ポンスンダン) で洪氏の還暦祝いを開き、6日目に華城の人民に米と塩、おかゆを振る舞い、老人向けのうたげも開き、7日目に華城を出発、8日目に都へ戻る、という日程。万人に自らの力と亡き父への孝心を誇示するのが目的ではあったが、節々から母への孝心も感じ取れる。記録画に描かれた隊列の位置を見ると、洪氏の輿を正祖の乗る馬が追う馬となっており、老母の体調を気遣った様子がうかがえる。正祖と洪氏の食べたお膳の内容も記載されていて、王である自分よりも豪華なお膳と老人用の重湯やおかゆを特別に用意させている。