朝鮮王朝が生んだ悲劇の王・景宗の陵
懿陵 (ウィルン)
■ 禧嬪の息子、第20代王・景宗
懿陵には粛宗の第一王子・景宗 (キョンジョン) (1688~1724) と宣懿王后 (ソヌイワンフ) (1705~1730) が眠っている。景宗はご存知のように、張禧嬪 (チャン·ヒビン) の息子である。1688年10年26日、父・粛宗が27歳の時にやっとできた第一王子で、3歳の時には王世子に冊封され、王の愛を一身に受けて育ったという。しかし、ある出来事を境に、病気がちで精神的にも不安定になり、やがて父に疎まれる存在となっていった。1720年に粛宗が60歳で崩御すると33歳で王位に就くが、その4年後に37歳で亡くなってしまう。在位期間は4年と短く、その間も闘病生活のために政務を執ることができず、即位2か月後には異母弟の延礽君 (ヨニングン、後の英祖 / ヨンジョ) を王世弟にして国政を任せている。彼を変えてしまった出来事とは何だったのだろうか。韓国では有名な禧嬪の死に際しての逸話がある。
景宗が13歳の時、母・禧嬪は王である粛宗から賜薬を賜り薬殺刑に処せられようとしていた。その時、禧嬪は最後に息子に会わせてくれと懇願し、王も最初は断ったものの、妻だった女の最後の願いを断りきれなかった。処刑の場に息子を連れて来ると、予期せぬ出来事が起きた、禧嬪は息子を見ると突然鋭い目つきで息子の方に駆け寄り、息子の性器をつかむと乱暴に引っ張ったのだ。居合わせた宦官らが引き離したが、景宗はその場で気を失ったそうで、彼はそのせいで子宝に恵まれなくなってしまったという。
朝鮮王朝実録から、景宗は病弱だったが優しい人柄だったことがうかがえる。生みの親ではない仁元王后を心から慕い、父が病に伏すと十数年間看病を続けたという。あくまでも毒殺説は否定できないが、心優しい景宗は母の痛みを一身に背負って、耐えきれずに逝ってしまったのではないだろうか。
■ 珍しい形式とユーモアがあふれる陵
陵内に入るといきなり禁可愛い橋、そして紅箭門、参道と続いている。ここまではこれまでの王陵と大差は感じられないが、岡の形や陵寝の配置に驚かされる。懿陵は朝鮮時代の王陵の中でも2か所しかない珍しい「同原上下陵」式だ。普通、王と王后を共に葬る場合、陵が隣り合う双陵式か、あるいは、1つの陵寝の中にの中に合葬する単陵合葬式が一般的だ。けれども、ここは風水地理説に従ってか、生気旺盛な正穴から陵寝が外れることなく生気の流れに沿うように、景宗と王妃の陵寝を上下に配している。上部の曲墻 (コッチャン) が施されているのが景宗の陵で、下部が宣懿王后のものだ。どっしりした岡の上に封墳の石物のがゆったりと並んでいて、日が沈むころに下から見上げると、石物の突起がくっきりと現れ、異国にでも来たような気分に浸れる。
近くに行くと、ユニークな石物たちが目を引く。石虎は滑稽な顔に長い尻尾の先がくるりと丸まっていて愛嬌があり、像によって尻尾の長さが少しずつ違っていて一番長いものは耳のすぐ後ろまできている。また、武人石も羽織った虎皮の臀部に尻尾のついている様子が刻まれていたりするのだ。懿陵は正祖 (チョンジョ) にとって王として最初の仕事のはずだが、後ろ姿にまでこだわりを見せるユーモアのセンスは誰のものだろうか。こんなユニークな石物に囲まれて、悲劇の王・景宗も時に妃と笑っているのかもしれない。
■ 死後も苦い思いを味わう景宗
景宗はその悲劇の生涯だけでなく、死後の住まいである陵においても悲劇が続いた。懿陵は1962年から95年までの33年間、懿陵周辺は中央情報部 (KCIA : 現在の国家情報院) の庁舎が居座っていて、一般の人々が近寄ることはもちろん、目に触れることさえなくなってしまったのである。中で何が起こっていたかは知る由もないが、権利者たちは陵の紅箭門と丁字閣の間を池にして、そこに船を浮かべて遊んでいたという。現在はそれが嘘のようにきれいに復元され、市民の憩いの場となっている。
ところで、陵の左側から山道へ入っていくと、白いコンクリートの建物が2つある。案内板には"旧中央情報部が使っていた講堂と会議室で、1972年7月4日イ・フラク中央情報部部長が「南北共同宣言」を発表した場所”と書かれてある。ガラス越しに中をのぞくと、ひと昔前の赤い絨毯が目に入ってくる。陵の周りは広い散歩道になっていて裏山へつながっており、歩いてみると所々で中央情報部時代の残骸に出くわす。方や山から街を見下ろすと、マンションやビルが山のように連なったソウル江北の様子が見渡せる。朝鮮時代と近代・現代、そして現在の狭間で懿陵は何事もなかったかのように静かに横たわっている。
なお懿陵は、奥の方に韓国芸術総合学校、周辺には慶熙大学校や韓国外国語大学校があるソウルの中心部に位置していて、西五陵などと比べると気軽に行ける。しかし、少々わかりにくい場所なので、最寄り駅などからタクシーに乗るのがおすすめ。基本料金ぐらいで行けるはず。
朝鮮第20代王である景宗 24) は、在位期間が4年 (1720~1724) と、朝鮮王朝の中でも在位期間が短い王である。そのせいか彼の業績や生涯は、ほとんど知られていない。
景宗 (名は昀 / ユン) は第19代王の粛宗と張禧嬪の間に生まれた。張禧嬪は訳官の娘で幼い時に宮廷に入り、粛宗の寵愛を受けて後宮になった人物。粛宗は生涯に仁敬王后 (インギョンワンフ) 、仁顕王后 (イニョンワンフ) 、仁元王后 (イヌォンワンフ) の3人の王妃がいたが、いずれも男子を生まなかったので、粛宗にとっては待望の男子だった。この時、粛宗27歳、在位14年目だった。そして粛宗は3歳になったばかりの昀を世子に冊立した。しかし庶子出身 (王后の子ではない) の景宗の出自は、その後の党争の元凶にもなった。
党争については、粛宗の時代に遡ってみよう。粛宗初期の執権層は南人 (ナミン) 勢力だった。しかし粛宗は均衡維持するため、南人と対立する西人 (ソイン) からも人材を登用する。しかしこの西人勢力もやがて南人に対する粛清問題や張禧嬪の処罰、昀の世子冊封問題、後には英祖の王位継承問題などで、老論派と少論派に分裂しこれまた激しい党争を繰り返すことになる。南人出身である張禧嬪の息子・昀が世子冊封される段になって、西人の長・宋時烈 (ソン·シヨル) は「仁顕王后がまだ若く、王子を生むことは可能だ」と主張。そのため流刑先で賜死された事件が起きた。そして西人派の仁顕王后が廃妃されたため、政権は再び南人に移る (己巳換局 / キサファングク) 。しかし状況はもう一転する。今度は南人が仁顕王后の復位を反対する過程で、複雑に動いた西人を粛清するのだが、タイミングが悪いことに、仁顕王后を廃妃した粛宗はこの事実を悔い始めていた。さらには南人勢力が伸長することに脅威を感じていた粛宗は、南人を排斥するに至る。政権は再び西人 (老論と少論) に移り、南人は没落する (甲戌獄事 / カプスルオクサ) 。仁顕王后の廃妃を悔いた粛宗にとって、この時、張禧嬪は好ましい存在ではなかった。そして1710年、張禧嬪が仁顕王后を呪術で呪っていたことが発覚し、粛宗命で賜死する (巫蠱の獄) 。景宗は14歳、しかも母の死に際も目撃していた。
病弱だったが聡明だった世子は、異母弟の延礽君 (ヨニングン / のちの英祖) に政事を学ばせるために代理聴政の機会を与えることもあったが、皮肉なことにこれは再び、世子を支持する少論と延礽君を支持する老論の対立を招いた。
世子生活が29年目になった1720年、景福宮の崇福門 (スンボンムン) で即位した。しかしこの時すでに朝廷を掌握した西人のうち老論派は、延礽君を世弟 (景宗に息子がいなかったため) に冊封する動きを見せ、景宗を後見する少論との対立関係は深まっていた。病弱な景宗は在位期間の4年間、党争に悩まされ、これといった治績を残すことができなかった。
■未だに謎が残る景宗の最期
時を遡った1696年、景宗は世子時代に沈浩 (シム·ホ) の娘 (後の端懿王后 / タニワンフ) と結婚する。この時王妃だった母は禧嬪に降等され、世子の病状も芳しくなかった。しかし世子は幼少期から聡明かつ徳を得た人物で、病弱な景宗はもちろんのこと、粛宗の継妃である仁顕王后や姑である張禧嬪に献身的に尽くしたとされる。しかし景宗が即位する2年前に、病弱だった景宗を残して亡くなった。粛宗はそんな世子嬪の葬儀を丁重に行い、京畿道 (キョンギド) の東九陵・崇陵横に安置した。
端懿王后がこの世を去った年、継妃として魚有亀 (オ·ユグ) の娘が世子嬪として迎えられた。宣懿王后 (ソニワンフ) 魚氏 (オシ) だ。宣懿王后は1720年に景宗が即位すると王妃に冊立された (英祖が即位した1724年には王大妃になった) 。宣懿王后が王室に嫁いだ時、党争はさらに激しさを増し、張禧嬪の廃妃事件が起こった後だったこともあって、宣懿王后はその行動すべてに慎重だったと言われる。また端懿王后の時と同様、景宗が病弱だったため子はいなかった。俗説として張禧嬪が賜薬を飲まされる際に、「殺さないで」と息子の景宗にすがり、景宗の睾丸をつかんだため、生殖機能を喪失したという説もある。
そして1724年8月25日、景宗も36歳でこの世を去る。英祖の命により、景宗の陵 (懿陵) は盛大に造成されたという。
公式的に病死とされ景宗の死だが、実は解明できない謎も残っている。その最たるものが、景宗の弟・延礽君が後見人の仁元王后と結託して景宗を死に至らしめた、という部分だ。食べ合わせの悪い干し柿と蟹の醤油漬けが景宗の食事 (水刺床 / スラッサン) に出て、景宗はそれらを食べた後、急激に苦しみ出したという。病床に伏せる景宗を前に、延礽君と景宗の御医が激しく言い争っていたという記録や、延礽君が御医の反対にも関わらず人参茶を景宗に持っていったという記録もり、景宗の死に延礽君 が関わったという見方が一般的になりつつある。延礽君を牽制する少論派と宣懿王后が景宗に養子を取ることを勧めていた時期とも重なっていたことがこうした憶測を呼んだのかもしれない。とはいえ、延礽君にも同情すべき観点はある。延礽君もまた、母がムスリ出身という宮廷でも最も身分が低い出自だったことから、幼少期は兄の景宗よりも肩身が狭い思いを強いられていたからである。そして度重なる党争を目前にして、若い延礽君が周囲の意向に対して敏感に行動したと考えてもおかしくはない。
とにかく、王権継承による疑惑を残して景宗は在位
4年でこの世を去った。ソウル市城北区の景宗の墓 (懿陵) の門前には、甲冑を着て長剣を両手に持った文武石人の像が景宗の墓を守っている。幼い時に母の死を目撃し、自分をこよなく愛してくれたはずの父・粛宗からも母が原因で疎んじられた。王となっても党派争いに巻き込まれ、生涯を力無く終えるしかなかった悲運の王・景宗が、あたかも「安らかに眠りたい」という唯一の願いだけは叶えているように見えるのは筆者だけだろうが。