廃世子となった世宗の兄
廃位後、全国各地を放浪
名は李禔 (イ·ジェ) 。1418年、25歳で世子を廃され世子の位が弟の忠寧大君 (チュンチョンテグン) に譲り渡されると、譲寧大君 (ヤンニョンテグン) に降格。同年8月、忠寧大君が王位に就くと (世宗 / セジョン) 、廃位された長男に対して、宮を出て行くよう求める上訴が殺到。京畿道広州 (キョンギドクァンジュ) に居を移した。翌年、世宗の計らいで
京畿道利川 (イチョン) に私邸が建てられそこに移り住んだ。
流刑にされたとはいえ、西北地域の名山大河を楽しみ、書をしたため詩を読むなど、詩人として風流な生活を送る。相変わらず酒をよく飲み、女性問題も尽きなかった。王室長男の反乱を恐れた臣僚たちに動向を監視され、問題行動を起こすたびに処罰するよう世宗に上訴が届いた。しかし、世宗がそれらの訴えに耳を貸すことはなく、「王座は本来兄が就くべきだったもの。民も兄弟は互いの過ちを許しかばうではないか」と言って、徹底して兄を擁護した。むしろ臣僚の反対を押し切って譲寧を宮中に招き、慰めもしている。
首陽大君支持派に加担
1438年には臣僚の猛反対にもかかわらず、世宗によって漢城 (ハンソン) に戻される。45歳だった。ところが、20年ぶりに都に戻ったというのにすぐまた騒動を起こす。同年の端午の日、譲寧大君の息子たちが連れ立って石投げ遊びを行い、譲寧はそれを見物した。二手に分かれて石を投げ合うこの遊びは死傷者が出て危険なため、禁じられていた。案の定死傷者を出して大問題になり、三男の李譿 (イ·ヘ) など首謀者は地方へ追放され、長男の李ゲと譲寧自身は放免になったものの、、譲寧は昔から変わっていないと周囲に印象付けてしまった。
それまで政治への関与はほとんどなかったが、1450年の世宗崩御以降、王族の年長者として政治的発言をし始める。文宗 (ムンジョン) が死に幼い端宗 (タンジョン) が即位した翌年の1453年、世宗の次男・首陽大君 (スヤンテグン) のクーデターを支持、半年後には端宗の賜死にも同意した。その後も放蕩な生活は続いたが、世祖 (セジョ / 首陽大君) の肩を持ったことで、王の厚い待遇を受けている。晩年、治療を兼ねた温泉行幸時には世祖の計らいで随行人が付き、死期迫る頃、庶四男の李諄 (イ·スン) 、庶五男の李諶 (イ·ジム) が昇進した。1462年、「豪勢な葬儀はせず墓碑も石像も立てるな」と言い残し、漢城の自宅で69歳の生涯を閉じた。自らの墓所、至徳祠 (サドクサ) に埋葬された他、世宗の廟に孝寧大君 (ヒョリョンテグン) と共に合祀されている。
絶世の美女・於里とのスキャンダル
1417年、譲寧が高麗末に活躍した武臣の郭璇 (クァク·ソン) のめかけ・於里 (オリ) と姦通したことが明るみに出た。美女とのうわさを聞き、郭璇に贈り物までして於里を東宮に連れ込んだのだ。譲寧は太宗 (テジョン) から謹慎の処分を受け、於里と別れると誓う反省文を書いて許されるが、於里をどうしても忘れられなかった。翌年、恋煩いに苦しむ譲寧のため義父の金漢老 (キム·ハルロ) が於里を東宮に呼び入れ、於里が妊娠したのでこっそり子を産ませた。当時は四男の誠寧大君 (ソンニョンテグン) が病死したばかり。太宗は激怒し於里を故郷に帰らせ、金漢老を罷免して世子嬪を宮から追放、東宮の門番や内侍を処刑した。譲寧は世子の廃位後もなお、於里に会おうと流刑先から脱出を試みたという。於里はその後、譲寧を慕うあまり自殺。朝鮮一のスキャンダルは悲恋に終わった。