黄喜 (ファン·ヒ) 、領議政を18年間務めた名宰相。
■ 高麗遺臣でありながら太宗の信頼を盾に出世
名門一族の黄君端 (ファン·グンソ) の次男として開城 (ケソン) に生まれる。母親は正室ではなく、側室の龍宮金氏 (ヨングンキムシ) で、一説では奴婢だったといわれている。生まれながらに聡明で記憶力かずば抜けており、14歳で蔭敍 (ウムソ / 有力者等に対する科挙の優遇制度) により出仕。18歳で崔安 (チェ·アン) の娘と結婚するが数年後に死亡、その後楊震 (ヤン·ジン) の娘と再婚し、2人の妻から3男2女をもうけた。
27歳で文科に及第し官吏の道を歩み始め、成均館学館などを務める。1392年、高麗が滅亡したことで、苦悩の時期を迎える。新王朝の設立に反対する70人余りの高麗遺臣と共に杜門洞 (トゥムンドン) に蟄居。しかし、李成桂 (イ·ソンゲ) らの説得で、杜門洞に閉じこもった高麗遺臣のうち最年少だった黄喜は、朝鮮に出仕することに。官職に戻ってからは、各行政機関に従事、司憲府 (サホンブ) や司諫院 (サガンノン) で言官 (王に進言する官職) を務めた。黄喜が政治手腕を発揮し始めたのは、朴錫命 (パク·ソンミョン) の推薦で、国王直属機関の承政院 (スンジョンウォン) の知申事 (チシンサ) に抜擢された時か
らだ。これは国王の秘書室長に当たる役で、高麗遺臣に不信感を抱いていた太宗 (テジョン) から絶大な信任を得る。黄喜は功臣らが牛耳る政界では異色の人物だったが、王の信頼の下、六曹の判官を歴任し、太宗と共に数々の政務をこなした。太宗の妻の一族である閔氏 (ミンシ) 兄弟批判でも先陣を切った。
■ 世子交代に反対し島流し 世宗の手足となって働く。
1418年、譲寧大君 (ヤンニョンテグン) を廃位にし忠寧大君 (チュンニョンテグン) を世子にするという一大事件が起きる。大多数の臣僚が世子交代に賛成する中、黄喜は「長子を廃し幼子を立てることは災いを呼ぶ」として、太宗に考え直すよう求めた。最後まで信念を曲げないのでこれには太宗も怒り、庶民に格下げされ、交河 (キョハ / 現在の坡州 / パジュ) に流刑される。ほどなくして都からより離れた全羅南道南原 (ナモン) に移され、4年もの時を過ごした。
世宗即位後の1422年、太宗の怒りがようやく解け、世宗の召命により復職を果たす。翌年には飢饉が続いていた江原道の行政監察官となり救護活動を行った。特に江原道三陟 (サンチョク) では、黄喜の善政に感謝した民ら黄喜の滞在した場所に石を積み開け、中国・周で善政を敷いた召公 (ショウコウ) にちなみ、召公台と名付けられた。こうして黄喜は世宗の信頼も得た。1426年に右議政 (ウイジョン) 、1427年には左議政 (チャイジョン) に昇進。その間、賄賂、姦通、汚職などの疑惑で物議を醸すこともあったが、世宗からの信頼が厚かったため処罰は軽く、すぐに復職した。69歳になる1431年には、宰相の中の最高位である領議政 (ヨンイジョン) に任じられる。以降、歴代最長となる18年にわたって領議政を務め、農業の改良、賤妾出身の賤役免除、国防強化、『経済六典』の刊行など、数々の業績を残した。
老体を理由に何度も辞職を求めたが、病気がちだった世宗がこれを許可せず、1449年、87歳でようやく引退した。世宗の31年にわたる在位期間中、なんと23年間も宰相を務めたことになる。90歳で京畿道坡州にて没し、文宗 (ムンジョン) らによって世宗の廟に合祀された。三男の黄守身 (ファン·スシン) も世祖 (セジョ) 代に領議政を務めている。
■ 伴鴎亭 (バングション)。
他にも
という話が残っている。