世宗のシンクタンク「集賢殿」
■ 世宗によってよみがえった集賢殿
世宗 (セジョン) の治世を語るに当たり、決して外すことができない集賢殿 (チッピョンジョン) 。まさに世宗流政治の象徴的な存在だが、「集賢殿」と名の付く機関が初めて設置されたのは1136年、高麗時代のことだ。中国の制度に効い、経典研究や書籍編さんなどを担当する学術研究機関として設置され、朝鮮建国後も存続したが、取り立てて目立った役割を果たすことなく有名無実化していた。世宗はそんな集賢殿を拡大・改編し、新たによみがえらせたのだ。ちなみに、文化君主としてよく世宗と並び称される第22代王・正祖 (チョンジョ) は、奎章閣 (キュンジャンガク) を根拠地として人材育成を図ったが、奎章閣も正祖が新たに設置したものではなく、有名無実化していた機関を再活用したものだった。
■ 英才が集まったエリートコース
集賢殿の拡大・改編は1419年2月、左議政 (チャイジョン / 副首相に相当) ・朴ウンうん (パク·ウン) の提案がきっかけとなり、翌年3月、世宗が10名の官員を任命して本格的な集賢殿体制が始まった。
実は、定宗 (チョンジョン) の時代にも臣下の建機を受け集賢殿の再建が図られたが、官吏は全て他官職との兼任で、これといった任務も与えられなかった。
これに対し、世宗は兼任と専任の両方を任命。上から最高職の領殿事 (ヨンジョンサ / 正1品) 、大提学 (テジュハク / 正2品) 、提学 (チェハク / 従2品) までは兼任で実質的な研究活動は行わず、主に太宗 (テジョン) 時代の功臣たちに担わせた。副提学 (プジェハク / 正3品) 以下が学士と呼ばれる専従の研究員で、集賢殿の実質的な業務を担った。科挙合格者のうち、成績優秀でかつできるだけ若い人材を世宗が直接選んで任命し、「賢」を「集める」という名の通り、まさに若手のホープがここに集められたのだ。ある学者によると、世宗時代に活躍した集賢殿出身の学士96人のうち、ほぼ半分が科挙の成績が5位以内だったという。
後に世宗がハングルを創製した時、集賢殿を代表して反対の上奏文を提出する崔萬理 (チェ·マルリ) は、最初に任命された10人の学士の1人で、当時は正7品の博士だった。
■ 外交文書作成から国王諮問まで
集賢殿の業務は大きく3つに分かれる。
1つ目は「人材育成」だ。世宗は「優れた人材は学問によって作られる」という哲学を持っており、学問こそが力の源と考えていた。そのため、学士たちは学問こそが仕事であり、世宗は学士たちが学問に専念できるよう、あらゆる配慮を行った。
2つ目は「書籍の収集・保管と編さん」だ。世宗は治国の助けとなる書籍の編さんを積極的に推進し、集賢殿から数多くの書籍が刊行された。
3つ目は「国王の諮問」だ。学士たちは経筵 (キョンヨン) に参席して世宗と共に学問的な討論を行ったり、世宗が推進しようとする政策の学問的裏付けを行ったりした。例えば、世宗が進める政策に大臣が反対したら、それに反論できる事例を学士たちが古典の中に探すのだ。特に3つ目の業務は重要で、国政を左右するほどの力を持った。こうして集賢殿は学問研究機関でありながら政治的にも力を持つようになったのだ。
■ 集賢殿学士たちの優遇制度
世宗が集賢殿を重要視したことは、その建物の位置からも分かる。また外国の使者の接待や宴が開かれた慶会楼 (キョンフェル) のすぐ前て、景色が良く、王の執務室である思政殿 (サジョンジョン) からも近かった。
人事の天でも優遇措置わ受けており、集賢殿の学士たちはそこにいれば副提学まで自動的に昇進でき、六層や承政院 (スンジョンウォン / 王の秘書機関) など他の官庁に栄転することもできた。学士たちが学問に専念できるよう、集賢殿専従の奴婢を配置したり、食事を内官に用意させたりした。王のみが口にできたという当時非常に貴重だったみかんも、学士たちに惜しみなく与えられたという。1〜3カ月ほど家や寺などで学問に専念させる「賜暇読書 (サガドクソ)」 という制度もあった。これは現在の有給休暇のようなもので、この間、学士たちは業務から離れ、家や寺などで読書に集中することができた。同じ所で長年にわたって勤務する学士たちがマンネリズムに陥ることなく、新たな気分で業務に取り組むことができるよう気分転換の意味もあった。
これらは全て世宗の集賢殿に対する期待の表れであり、その分、普段の仕事ぶりはどの官庁よりも熱心帰宅で、学士たちはどこの官庁よりも早く出勤して遅く帰宅し、徹夜も日常茶飯事だったという。
■ 集賢殿の成長と終焉
集賢殿が政治的な力を持つようになったもう1つのきっかけは、世宗が晩年、世子に政務を任せたことだった。集賢殿の学士たちは世子の教育官を担当しており、世子が政務を代行するようになるとともちゃん、世子の政務を補佐する仕事も担うようになった。
世宗の死後、文宗 (ムンジョン) が即位すると、集賢殿出身者たちはこぞって司憲府 (サホンブ) や司諌院 (サガノン) などの機関に進出し、政治的発言力を高めていく。彼らは “ 集賢殿出身派 ” とも呼べる勢力を形成し、宰相や大臣ら既得権層と対立した。
そして首陽大君 (スヤンテグン / 後の世祖 (セジョ) ) が端宗 (タンジョン) を追放して即位すると、成三問 (ソン·サンムン) ら集賢殿出身者たちはこれに断固反対し、端宗復位運動を展開。怒った世祖は集賢殿の廃止を命じ、1456年、37年の歴史を閉じる。
集賢殿の機能をよみがえらせたのは、第9㈹王・成宗 (ソンジョン) だった。書庫の弘文舘 (ホンムングァン) に集賢殿の機能を持たせ、儒学の振興や人材育成を行った。しかし、成宗時代の弘文館は、世宗時代に集賢殿が持っていた純粋な学術研究機関としての面は失われ、むしろ王の諮問や監察など政治的機能が強化された。