新・大王世宗(テワンセジョン)【改訂版】。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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今まで朝鮮王朝第4代王・世宗  (セジョン)  の事は何回も考察し、書いて来たが、これと言う決定版が書けていない。今回こそと思うと力んでしまう。偉大なる聖君かつ名君は、そんな風なモノかも知れない。


    民族の誇りとなった偉大な王


👑 世子冊立2カ月で即位


太宗  (テジョン)  と元敬王后  (ウォンギョンワンフ)  の三男に生まれた祹 (ト)  は、1408年、12歳で忠寧君  (チュンニョングン)  に奉じられた。同年、沈氏  (後の昭憲王后 / ソホンワンフ)  と結婚。1418年6月、兄の譲寧大君

  (ヤンニョンテグン)  が世子を廃されると、急きょ世子に冊立される。同年8月には23歳で国王に就いた。ところが太宗は、息子の即位と同時に外戚の権力拡大を恐れ、昭憲王后の父・沈温  (シム·オン)  にぬれぎぬを着せて処刑。大臣らは、昭憲王后も廃妃にするべきだと訴えたが、沈氏はすでに4人の子がいて、安平大君  (アンビョンテグン)  も生まれたばかりだったため、太宗は廃妃にしない代わりに名家の娘を側室に迎えるよう指示した。その後、伯父の定宗  (チョンジョン)  、母の元敬王后が逝去し、王家は喪が続いた。そんな中でも世宗は、儒教的な王道政治の理想を実現しようと、人材育成と学問振興を担う機関を立ち上げる。こうして1420年、宮中に集賢殿  (チッピンジョン)  が整備された。
1422年、太宗の死去により、政権4年目にして世宗の親政が始まった。世宗は、民を愛する民本主義を掲げ、徳のある王を目指した。治世から10年余りたち30代に入った頃、孟思誠  (メン·サソン)  、黄喜  (ファン·ヒ)  、許稠  (ホ·ジョ)  といった重臣を宰相に起用。儒教において理想とされるクリーンな役人  (= 清白吏 / チョンペッサ)  である彼らを側近に据えて以降、老齢による引退の申し出もことごとくはねつけ、最期まで補佐させている。

👑 集賢殿学士と共に精力的に活動

集賢殿では鄭麟趾  (チョン·インジ)  など若手の学者は研究に励み、世宗も深夜まで精力的に彼らと議論を交わし、
その成果を一つ一つ実らせていった。集賢殿の学者・
朴ヨン  (パク·ヨン)  は楽器や楽譜を製作し、宮廷音楽を整理。契盾  (シル·スン)  は倫理書の『三綱行実図  (サムガンヘンシルト)』、兪孝通  (ユ·ヒョトン)  は医薬書の『郷薬集成方  (ヒャンヤクチブンバン)』を編さんした。李蔵  (イ·チョン)  らが潭天儀  (ホンチョニ)  を製作すると、天体観測所である簡儀台  (カニデ)  に設置し、世子  (後の文宗 / ムンジョン)  と共に自ら観測も行った。水時計の自撃漏  (チャギョンヌ)  や日時計の仰釜日
グ  (アレブイルグ)  は、広く人々が使用出来るようにした。

 印刷の普及に併わせ、活字を製作する鋳字所  ( チュジャソ)  を宮廷内に置き、書物を収める書庫も各地に整備した。金宗端  (キム·ジョンソ)  や鄭麟趾  (チョン·インジ)  に命じて『高麗史』の再編さんにも力を入れたが、完成を見ることはなかった。同時に崔潤徳  (チェ·ユンドク)  に女真族を討伐させて鴨緑江  (アムノッカン)  .、豆満江  (トゥマンガン)  以南まで領土を広げた。

40代になると一日中座っての業務ができなくなり、次第には本も読めないほど視力が低下。46歳の時、文宗に執務を預け、自分は寝殿の康寧殿  (カンニョンジョンせ!1416年9月、訓民正音  (フンミンジョンウム)  を公布。たが、この公布前の3月、妻の昭憲王后が永眠する不幸があった。自身の病状も、温泉行幸による湯治のかいなく、悪化の一途をたどった。1450年、54歳て崩御。昭憲王后と共に埋葬され、後に京畿道驪州  (キョンギドヨジュ)  の英陵  (ヨンヌン)  に移葬されている。正室他5人の側室を持ち、18男4女をもうけた。


👑 世宗の過ち


世宗という王は、業績面でも人格面でも日の打ちどころのない人物だが、1つ大きなアヤマチを犯したと言われていることがある。太宗が世宗の義父である沈温  (シム·オン)  を強引なやり方で粛清してまで息子のために地盤づくりをしたのに対し、世宗は逆に政敵をのさばらせ、ついには孫を危機に陥れてしまったことだ。首陽大君  (スヤンテグン)  による端宗  (タンジョン) 追放がそれである。

世宗には昭憲王后との間に8人の息子がいたが、みな優秀で、世宗は世子を摂政にすると同時に、他の息子たちにも能力に合わせて事業を任せた。自分の負担を軽くする一方で、優秀な息子たちがその能力を発揮することなく日々をただ無為に過ごすのはかわいそうだ、という思いがあったのかもしれない。

そして、世子  (文宗)  を摂政に立てた後の世宗は、療養のため息子たちの家を転々とし、王命の伝達も息子たちに任せた。こうして世宗の臣下との接触が減ると同時に王子の存在感が増し、中でも次男の首陽大君と三男安平大君  (アンピョンテグン)  が大きな勢力を形成するようになった。  

文宗即位後その傾向は強まり、『文宗実録』には臣下たちが首陽大君の越権行為を罰するよう求める内容か出てくるが、文宗は首陽大君をかばい、訴えを聞き入れなかった。

世宗や文宗がどこまで首陽大君を危険視していたかは分からないが、兄弟間で骨肉の争いを演じた太宗と違い、世宗は兄弟仲が良く、世宗の兄たちはむしろ、弟のために自ら身を引いたと言われるほどでありら、自分の息子たちもそうだと思い込んでいたのかもしれない。

しかし、世宗の死後、文宗の時代になると、首陽大君の野望は誰の目にも明らかで、文宗は死の間際、領議政  (ヨンイジョン)  の皇甫仁  (ファンボ·ジン)  や左議政  (チャイジョン)  に幼い世子  (後の端宗)  を補佐するように頼んだという。


 


















































































仏教弾圧・明への貢女、その功罪は色々とあり、肉好きで運動嫌い、挙げ句の果てには肥満・糖尿病と成人病に泣かされたようである。名君・聖君と呼ばれた王も、案外と人間らしいではないか!? 

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