■ 朝鮮独自の暦を計算した天文暦法学者。
兵曹判書 (ピョンソバンソ) を務めた李孟常 (イ·メンサン) の息子として誕生。幼児期は持病により会話や歩行ができなかった。22歳で文科に及第。世宗 (セジョン) に漢城 (ハンソン / ソウル) の緯度を聞かれ、「38度強」と答えられたことをきっかけに、算学の専門人材に抜擢される。
気象観測を担当する書雲観 (ソウングァン) に所属し、簡儀台 (カニデ) での天体観測を任じられる。明の大統暦では、日の出、日の入り、日食、月食の時期が異なる朝鮮にマッチしないと考えた世宗が、朝鮮独自の暦作成を指示。鄭麟跡 (チョン·インジ) を長に迎え、金 淡 (キム·ダム) を交えてプロジェクトが立ち上がった。途中、母の死で喪に服するが、世宗の懇願により復職。1444年、ついに天体物理学書の『七政算内外編 (チルチョンサムネウェピョン)』の編さんを終える。太陽と月、5つの恒星の軌道を計算し、『内編』では元の授時暦を漢城中心に読み替え、『外編』ではアラビア天文学を分析した。
正2品まで出世するものの、晩年、娘が女装した奴婢の舎方知 (サバンジ) と内縁関係にあったことが明るみに出て赦免になった。60歳で死去。李純之の算術力は、農地の測量や堤防工事の計算の他、天体観測器の製作にも生かされた。
■ コペルニクスより先に“地動説”唱える。
1548年のコペルニクスの発表より先立つこと約100年前、李 純之は“地動説”を唱えている。月食にまつわり、文臣とこんな問答をした。1427年、科挙に及第し、承文院 (スンムンウォン) で外交文書を担当していた時のこと。月食の影を見て、李純之が「あの影は地球で、地球は丸くて太陽の周りを回っている」と主張した。それを聞いた文臣らは「月食がいつ起きるのかを当てたら信じてやる」とした。すると、彼の言った日時に月食が起きた。だが当時の朝鮮では、天は丸く地は四角い「天円地方」の宇宙観が一般的だったため、李純之の主張はすぐ忘れられた。地動説の再登場は、科学者の金錫文 (キム·ソンムン) や洪大容 (ホン·テヨン) の活躍する朝鮮後期まで待つことになる。