パディ・ストーンと宝塚歌劇、そして『シャンゴ』。 | 咲くやこの花のキラキラパラダイス

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パディ・ストーン振付作品ポスター(時系列ばらばら、大劇場のみ)。やっぱりスータンさん(眞帆志ぶき)と彼女率いる雪組の出演率高し。


■ 新生雪組発足。

明石照子と浜木綿子コンビが去った雪組は、そのトップの座に真帆志ぶき(退団後に眞帆志ぶきと改名)と加茂さくらの新コンビを据えて、昭和38年、高度経済成長の波に乗ってタイミングよく、新生雪組丸の帆をあげる。 

と来るべき日の到来直前の当時の様子を岸  香織(雪組・専科に属していた名脇役)は自著『虹色の記憶』の中で述べている。=  一部内容をお借りして引用させて頂きました。







■ 『シャンゴ』(出来る限り原文のまま)。


昭和42年(1967年)9月1日、宝塚大劇場において、あの不朽の名作『シャンゴ』の幕があいた。

鬼才鴨川清作作、鬼のパディ・ストーン振付、天才真帆志ぶき主演の、雪組公演『シャンゴ』は鬼才と鬼と天才が三位一体となって初めて出来得た稀有な作品だといえよう。

だが鬼のストーンさんは、昭和40年のパリ公演振付のとき、生徒たちを殴る蹴る罵倒するの三悪で、遂に鬼の異名をとった男だ。これに出演していた雪組の妖精安芸ひろみは、子供の頃に怪我をした左足に、針金を入れており、これの痛みで、再度ストーンの振付には耐えられないと、突如辞表を提出して雪組生をのたうちまわらせた。

そしてストーンがやって来た。

鬼、とはよくぞ付けたりと、雪組全員が納得したほど彼は鬼そのものだった。


いったいどんなお稽古場の状況だったのか!?


ガッシリとあごの張った大きな赤ら顔。

オンナナンカダイキライ、と語る炯々たるそのマナコ。ドスの利いた塩辛声。仁王サマもまっ蒼のデカイ手足。あコノ手コノ足で殴られ蹴られるのかと、集合日にして早くも我らは恐怖におののく。


書いているだけで怖い、恐い、こわい。


この集合も、いつもの公演ならおよそ1ヵ月前に生徒を集めるところを、ストーンのシゴキに時間が掛るのを見越してのことか、2ヵ月前の集合日となった。
恐ろしさに身をすくめる雛鳥のような私たちを一列に並べ、端から端までジロリンと睨みつけるストーン。キャー食べられそー。
そして、いきなり足使いの特訓が始まる。
ストーンの通訳を、大先輩の名ダンサー黒木ひかるサンが担当された。

ストーンが怒鳴る。『靴をぬげ、私のダンスシーンはすべてハダシだっ』。

雛鳥の私ら、従順にバレエシューズを足から取り去る。思えば、これが地獄への転落第一歩だった。

両足を開いて腰を落し、目はハッタと前方を見すえ、足を床で摺って左から右へ、またその反対の体重移動の稽古が繰り返される。

こればかりやらされて二日目、足を裏返してビックリ。親指の皮がベロンと剥けてピンク色の肉が丸く顔を見せていた。その肉に、床の木の細かいささくれが何本となく突き刺さっている。ここまで来れば、誰もイタイなんていう感覚が起こらぬもので、足の裏を眺めながらただボンヤリとするばかり。

三日目に入ると、各場面のオーディションが行われる。


そして、どうなったのか!?(ここからは中抜き)m(。≧Д≦。)m

夏の暑い盛りの七月八月を、くる日もくる日も鬼のストーンとの闘いに明け暮れた雪組生たち、ゲッソリとやつれてしまう。

ほんとに元気な人間は誰もいなかった。
同期の男役真澄典子なんか四つん這いになって踊るシーンでは、ストーンのどデカイバスケットシューズの足で、わき腹を思いきり蹴られ、かわいそうに筋を痛めて体中ホータイでぐるぐる巻きのエジプトミイラになっていた。また、ジャングルの女の役をもらった私、前の人に続いて摺り足で出てゆくと、ストーンめ、余りの下手さに顔ヒン歪めて『ウォーッ』と吠えたてる。
そないに怒っても私しゃ知らんがな。
だが、両手をバッと前に出し、空をハッタと睨みつけるシーンでは、アゴの吹き出物つぶしつつ『オー、お前はアクトレスだっ』と誉めてくれたりもした。
ナーニ、憎っくきストーンめに向かって『バッカヤローッ』とハラの中で叫んだまでヨ。事実、この稽古場では何人もの生徒がバタバタ倒れ、注射器片手に看護婦サンが走りまわっていた。注射が恐いストーン、このときばかりは部屋の隅でちぢこまり『オーノー』とふるえ、我ら一同溜飲を下げる。
それでも看護婦サンの姿が消えると、飲み終えたコーラのビンを投げるワ、首にかけてたバスタオルをムチ代りにしてビシビシ打つはと、やりたい放題。

余りの辛さに『ストーンの飲むコーラの中に毒を一服盛ろう』と、みんなで真剣に話したりもした。

振付の間、演出の鴨川先生が一度も顔を出さないので『何で?』と問いつめると『稽古場の外までは来てるねんけどサ、窓の外から見てるとアンタらが蹴られててなァ・・・・・・』と、今にも

泣きそうな顔をする。

ストーンとのせめぎ合いを続けるうち、『シャンゴ』の形が出来あがってくる。ストーンの高度な要求に応じることが出来たのは、主役の真帆志ぶきサンだけだったと思う。ストーンは新しい振りを考えてくると我々の前で踊ってみせる。その意とするところをバッとつかんで鮮やかに動いてみせるのはスータンひとり。我々は悪あがきするのみ。



昭和42年(1967年)9月1日、ついにその日がやって来た。雪組大劇場公演『花のオランダ坂』と『シャンゴ』の初日が。

重厚な菊田作品『花のオランダ坂』が終わると、白塗りから黒塗りへと地獄の化粧替えが始まる。

頭のテッペンから足の先まで真っ黒に砥の粉化粧した我々七十名は、極度の緊張感のなかで『シャンゴ』初日の幕を待つ。

アナウンス嬢が開演を告げたとき、私は緊張の余り息ができなくなり、後ろでスタンバイしていた生徒に『背中を叩いて』と、身ぶりで頼む。私の背中を叩いた彼女、クルリと背中を見せ『私も叩いて』と、これまた身ぶり。アフリカの乾いた大地に太鼓の音が響きわたり、静かに緞帳が飛んだ。


シーンは進み、クライマックスへ。


黄金色に輝く真帆志ぶきのシャンゴを中心に、七十名が一糸乱れぬ群舞を見せる。全員が赤銅色の衣裳で踊る。次の瞬間、まばゆいばかりの金色に全身を染めて力強く踊る。これは左右染め分けの衣裳になっているわけで、少しでも体の方向に狂いが生じれば赤銅色一色金色一色にはならない。全員が寸分の狂いもなく同じテンポ同じ角度で踊らなければ、ラストの見せ場が色あせる。


一時期に及ぶ『シャンゴ』が終了し、鳴りやまぬ拍手の中で緞帳が静かに降り切った。

物も言わずに我々はその場に倒れ伏す。私は大の字になって、天井を見上げた。なんにも考えられなかった。手も足も自分の物でないような気がした。

拍手はまだ続いていた。

みんなはピクリとも動かない。

そこへ、客席に居た内山信愛理事長、鴨川先生、プロデューサーの野田氏らが帰ってきた。その後ろから大きなストーンが、なぜかトボトボと歩いてくるのが目に入る。

そして、その場に転がっている我々ひとり一人の手を引っぱって起こし始めた。

腑抜けのようになって座る我々に静かな声でストーンが言った『よくやった、小さなお前たちが凄いことをやったのだ』。

この瞬間、信じられないことが起こった。床に跪き、両手を前に差し出したストーンが『ウォンウォン』号泣し始めたのだ。

ストーンが泣いた。鬼の目にも涙。なんてこと、そのときは思わなかった。

ひたすら泣き続けるストーンを確認した我々は、やっと我に返り、ストーンに負けぬ勢いでワンワン泣き出す。





酷かったアノ時間も、万雷の拍手と、ストーンの涙で、今や帳消しになった。



この年の11月東京公演で『シャンゴ』は芸術祭奨励賞に決定した。


ほぼ原文のまま、ただし原文よりかなり割愛致しました。岸  香織著書『虹色の記憶』よりお借りし引用させて頂きました。



パディ・ストーン氏の資料が少なすぎる。もっと欲しかった。





パディ・トーン振付作品集