あたり年らしい。
とはいえ、アンラッキーすぎ、という意味でのあたり年。
当然、使い方はおかしいのだが、あたり年なのだな、と言いくるめたくなるような一日が昇っては沈んでゆく。
去年の七夕を過ぎた頃から、すでに3度も事故に遭遇した。
ひとつは自転車で車と接触、あとのふたつはスーパーの駐車場での車同士の接触事故である。
はなから車の運転は苦手なタイプなので、接触率は高いと常日頃からかなり気をつけていたつもりなのだが、慣れた場所ほど魔の三角地帯となるらしい。
バミューダ海域に突入するつもりで、毎回、駐車場では匍匐前進のような徐行運転をしていたつもりなのに、と、事故を起こす人は誰でも思うらしい。
全てが「つもり」の世界の住人なのである。
心的傷口が深くなりそうで、事故を起こしたと言い切らず、遭遇したと自分に言い聞かせては忘却の彼方へ追いやろうとする。
が、忘れた頃に、また遭遇して、よくあるという3度目となった。
凹み指数は2乗しても足りない。
1週間ほどして、ようやく自分の過ちに向かい合い、ペシリとお尻を叩けるほどに成長した。
思いもかけない出来事に遭遇すると、あなたは一体おいくつですか、とわが身に尋ねたくなる。
確実に歳月を重ねたのは、実は老化している細胞だけだった、という現実に身もふたもなくなって涙目となる。
すでに終活気分の人なので、もう少しましな大人になっていたと思っていたのだが、あっけなく崩れる歳月神話に呆然とする。
子供のようにパニくるだけならまだ可愛い。
そこに妙な大人の底力がふつふつと沸き上がって、またまた妙な具合の思考回路が交差する。
何があろうと、沈着冷静。
これが全く足りない。
どんな事が起こっても、それはそれで、と受け入れられる、そんな人にワタシはなりたい、と行書体で頭に貼り付けておくのだが、事が起これば一瞬にしてどこかへ吹き飛ばされている。
しかも、年を重ねるごとにその受け入れ態勢から遠ざかっているような気がする。
これから、受け入れ態勢モロモロあり、の人生終盤なのである。
きっとこうして、モロモロの経験を重ねるごとに「そんな人に」近づいていけるのかもしれないよね、と色づいた紫陽花に話しかけている危ない人になっている。