メタセコイアを見に行く、ただそれだけのために靴を履く、そんな日がある。

自宅から歩いて5分もかからない場所に大きな公園がある。

公園とはいえ、イベントのできる広場や広大な芝地には遊歩道が整備され、桟橋のある蓮池、自治体管理の稲田が片隅の区画を占め、分水までもが流れ、公園と括られるには惜しい場所である。

 

お目当てのメタセコイアは、その広大な公園の冬枯の芝地の真ん中に、ポツンとひとり取り残されたように立っている。

その昔は深い森だったであろうその場所。

仲間の木々は伐採され、この高木はシンボル樹として残されたのかもしれない。

 

思えば、30年以上、造園コンサルタントという職種の会社で働いている。

植木屋さんと間違えられそうな職種だが、剪定や伐採などの現場仕事は一切しない。

ランドスケープアーキテクトとも称されるらしい。

 

30年余り植物に関する仕事をしているはずだから、植物に詳しくなっても良いはずなのに、未だにヒトツバタゴがなんじゃもんじゃの木、だと思い出せない時がある。

葉っぱをみれば、これは○○の木、と即座に言えるはずの環境に何十年も身を置いていたはずなのに、ハート形の葉っぱは全てカツラに見える。

そんな私でもひと目見て、遠くからでもわかる樹形がメタセコイアだっだ。

樹形や葉に特徴があり、わかりやすいといえばわかりやすい。

が、剪定具合によってはわかりにくいメタセコイアもあるので不思議といえば不思議だ。

 

近づいて、見上げるメタセコイアはこの季、すっかり葉を落とし、両手を広げたような枝木ばかりの姿となっている。

樹齢はどのくらいだろう、と見上げるたびに思う。

幹周から想像するに、百年は経っているような気がする。

いつか空まで届いてしまいそうなほどの美しい円錐形に、見惚れているのか、魅入られているのか、わからないままゆっくりと過ぎてゆくこの刻もまたこの樹齢に足されてゆく。

幹にそっと触れながら、このメタセコイアはいくつの時を超えるのだろうか、と思いを馳せては溜息をつく。

昼日中に見える薄紙のような三日月にまで届きそうなメタセコイアをもう一度見上げ、私もまた冷気の時を歩き出す。