声を聞くたびに、会うたびに、大丈夫だよ、と笑ってばかりいた彼女が急逝した。

 

Aちゃんが昨日なくなったんよ、とY子から連絡があった時、その言葉が全く理解できず、意味不明の声の響きだけが耳の奥に伝わる。

 

いなくなった? の聞き間違いだろうか。

 

急なことで私も頭がパニクってるんだけど、明日一日葬で葬儀を済ませると弟さんから連絡がきたのよ、と続く言葉で、亡くなったの、Aちゃんが、と粉々になった文字に漢字をはめてやっとその事態を飲み込む。

こんな時やっぱり私の口からもついて出る言葉が「嘘でしょ」の連呼で、ああドラマじゃあるまいし、と片側の耳の奥がつーんと痛くなる。

 

「Aちゃん」と「亡くなる」、全く想像できない組み合わせの文字を頭の中に浮かべてはみるのだけど、どうしても信じられない。

それほどに元気な彼女だった。

つきあいのある同年代の友人の中で、多分一番元気で若々しかった。

お互い、年を取るごとに会う回数も声を聞く回数も確実に減ってはいたけど、会うたびに彼女は、アタシにとって、16歳の時放課後の教室でだべり続けていたAちゃんだった。

誰もが知る大企業で35年、昭和のおじさん達に肩たたきされつつも独身お局として勤め上げ、その後は弟さんの経営している中古車販売会社でオーバータイムの勤務をしながら、母親の介護と弟さんの生活を支え、まさに一家の大黒柱。

私がいなくなったらこの二人は死んじゃうよ、といつも言ってたのに。

言ってたのに、なんで先に逝っちゃったのよ。

 

年に数回のお茶会にも、たった2時間しか家と会社を空けられないけど、とカラダ全部で笑いながら登場した。

感心するのは、そんな忙しさの中にあってもメイクやヘアー、ファッションにもしっかりとチカラを入れて若々しさが半端なかったことだ。

 

だらけたわが身に反省の心を呼び戻してくれるあのひと時が、もう永遠に過ごせない。

 

昨日の今日で、結構無理な人もいるらしいけど、12時までに○○ホールに着けば会えるから、もしできたら会いにおいで、と別の友からも連絡をもらい、12時までのシンデレラ、待っててよ、と眠れずの朝を迎える。

重すぎる体調の後先は忘れたことにして、高速で往復3時間余りかけ、最後の彼女に会いに行った。

 

半分になってしまったAちゃんの顔を見た途端、お茶仲間4人で号泣。

なんで、こんなになるまで何を頑張っていたのだろう。

 

100人規模の大きな葬儀場で周りの見知らぬおじさんやおばさんが、一体何事かと視線を送る。

なんで誰も泣いてないんだろう。

なんで、皆、普通に席に座って隣の人と普通に話してるんだろう。

ここにいるのはAちゃんなんだろうか。

現実はどこに隠れているのだろう。

 

そういえば、お茶会の時にこんな話をしたっけ、と思い出す。

多分この中で一番に逝くのは私だから、死後、どうなるか、死んでも意識とかあったら合図するね、サインはVで背中をトントンするから、と。

そんな私に「変な事ばっかり言わないで、大丈夫だから」、と即、返されたけど全然大丈夫じゃないよ。

たわいもないおバカな話で笑いあっていたあのひとときは、もう永遠にこない。

 

ねぇ、Aちゃん、サインはVのお別れ、忘れてないよね。