その昔、月いちで発売される「本の雑誌」を読むのが楽しみだった。

沢野ひとしの「アタシにだって描けそうで描けない」まったり感たっぷりの表紙にも一拍おき、頁をめくるまだらな時間はちょっと大人のアタシだった。

わかったようでわからない書評も味付け乙、でなぜか癖になり、編集長の椎名誠の著作もかなり読み漁っていた時期でもあった。

 

もちろん入口は「さらば国分寺書店のオババ」や「気分はダボダボソース」。

国分寺のことをブンジと馴染んで闊歩していた頃、国分寺書店探索に明け暮れた日もあった。

シーナ節さく裂のエッセイ。

結構面白い文体で、当時は色めきだってしまったことを覚えているが、野性の風に吹かれるようになったシーナや家族のことに触れるようになったあたりから、ちょっとさよならします、となったシーナなのだった。

 

そんなシーナを見かけた。

新聞広告で、だが。

そして、久々に手に取ったのが「失踪願望。 コロナふらふら格闘編」なのである。

このタイトル、そしてこの表紙の写真。

どうしたもんか、読むべきか、読まざるべきか、としばし迷いつつ、とりあえず、おやじ、どうしているのかな気分で読むことにしたのだった。

 

ひとこと感想で言うとすれば、すごく普通の人になっていた、というか、根っこはすごく普通の人だったのかもしれない、とイメージがざっくりと崩壊したのだった。

家族なんかどうでもいいのかと思っていたのに、奥さんや息子、娘を昭和的に愛し、健康診断なども定期的に受け、真っ当な社会の真っ当な位置で暮らす普通のおじさん、となっていた。

体力も気力もぱんぱんでコロナに罹りそうもない、そんな人がコロナになって救急車で運ばれ、その後回復してもいつもの自分に戻れない、と弱気漏れ漏れシーナさん。

昔から眠剤を常用していたり、せん妄症状があったり、有名どころの大学病院に通院していたり、といつのまに、格闘する場所を変えていたのよ、シーナさんと、ため息がでた。

 

賢夫人らしい奥さんに支えられ、いつのまにか、真っ当になってしまった岳君にも凭れ掛かるシーナさん。

ちっとも怪しくなっなって、天国に旅立った目黒孝二氏もシーナさんのことを色々ぶづぶつ書き綴っているような気がする一冊、なのであった。