高齢の親を持つ誰もが遭遇するらしき出来事のひとつに、冷蔵庫の不思議ワールドがある。
わが実家もご多分に漏れず、冷蔵庫内の正しい収納方法が今や変化を遂げ、冷蔵庫を開けるたびに私の ? が連発する。

1ヶ月前から続発しているのは、冷凍食品の置場所である。
4段ある冷蔵室の2番目に置かれた冷凍食品を目撃し、一瞬これもありなのかとも思ったのだが、今までしたことのない母の行動に少々焦った。
とうとう母の脳細胞の記憶のパルスが崩れ始めてきたのかと。
元々冷凍食品に抵抗を示していた母であった。
主婦がこんなもので食事を間に合わせてはいけない、食事は作るものという昭和の母なのである。

フルタイムで定年まで勤め上げたその日々も、食事は必ず作り、出来合いのものというのはほとんど食卓に並ばなかった。
そんな母なのだが、高齢になり、買い物に行けなくなったりすることもあろうかと、私が買出し部隊となる時は、冷凍食品を見繕って購入するようになった。

品目は冷凍にしてはおいしいと思える定番で、おうどん、チャーハン、焼きおにぎり、餃子などである。
レンジの普及で冷凍食品もそれなりの一品となるせいか、母も冷凍食品、なかなかいいわね、となった。
5年ほど前に買い換えた、気持ち大型の冷蔵庫の冷凍室はかなりの存在感を持ち、冷凍食品が世間の主婦にとって最早なくてはならないメニューのひとつとなっているのがよくわかる。
実家の冷凍室は大と小の2つあり、大の内部は2段になっていて、余裕の収納力。
なのに、なぜ、この場所にしまってくれないの、おっかさん、という状況が続発中なのである。

「これは冷凍食品だよ、なんでここにあるの」とショックを隠しつつ穏やかに尋ねると
「明日食べるつもりだから」との答え。
つまり、これは冷凍したお肉の解凍という部類に入るのであろうか。

冷凍食品は冷凍のまま調理しないと、品質も味もおかしなことになるよ、と強調し、冷凍庫に移動する私を見て、本人もそうなのか、というふうに納得したようなので、ひとまず安心していたのだが、翌々週の冷蔵庫内でまた同じことが繰り返されているのには心底がっくりする。
忘れてしまったのか、2週間前の出来事を、おっかさん、となり、私はまたまた同じ言葉を呪文のように繰り返すのだった。

思えば、冷蔵庫内の未知との遭遇は今に始まったことではない。ある日はツナの缶詰が、またある日は開封中の同じ玉ねぎドレッシングが3本、はたまたある日は高野豆腐がスライスチーズの横に鎮座していた。

そう、ちょっと変でしょ、笑えるよね、ということはよくあることで、高齢の親をもつ人々の間でよく聞く話でもあった。
だが最近の冷蔵庫内の変ぶりは警告カードから危険カードとなってきているような気がする。
この辺でこの不可解な現象が何とかとどまってくれないか、と切に願う私なのだが。

時折、意を決して行う実家の「覚悟の冷蔵庫整理」。
扉をあけ、隅々のものをチェックする。
広くなったなぁ、冷蔵庫。
昔の2ドアの頃は扉を開けば一目瞭然、隅々にまで目が行き届いた。
それが今や、あの瓶やこのタッパに隠れて、こんなところにこんな化学変化を遂げた品々があったのかとぎょっとする。
消費期限の限界を遥かに超え、何か別の世界からきたような食品たちを見つけるたびに、お願いしますよ、おかっさん、となる。

冷蔵室で見たくないものを沢山見てしまった後の疲労感を背負ったまま、野菜室などもそっと開けてみる。
ああ、そう、ここもそうだったね、おっかさん。
少食な母と兄には手に余る野菜たちが、くたびれてしおれて泣いている。
もやしやキノコ類は1袋が一度に処理できずに、半分はいつも処分対象となっている。
きゅうり好きなあなたの買い込んだきゅうりが10本以上あるけど、これは趣味で買ってるわけじゃないよね、おっかさん。
買わなきゃいいのに野菜好きな母は、自分たちの胃に余る量の野菜を買い込み、毎週私の小言に拍車をかける。

この際、無駄を省くために、高齢者向きの料理宅配便というのを利用してはどうだろうかと、何度か提案したみたのだが、
「そういうのは余程の年寄が使うものだよ」とぴしりと一言。
兄と私が吹き出したのは言うまでもない。
余程の年寄、より、もっと年寄のような気がするのだけど、私たちの錯覚ですか?  おっかさん。