冬の常備食としていたチョコレート業界がかまびすしい。

バレンタインは2月だが、1月から3月のホワイトデーまで派手なチョコたちが出現して、定番チョコたちが片隅でひっそりと寄り添っている。
バレンタインにチョコ。この年になるとはっきり言ってどうでもよろしい。
友チョコとか義理チョコとか、自分チョコとか、チョコを買うために踊らされている群衆を見かけると足早に過ぎ去ることにしている。
人間関係のバロメーターにチョコやクッキーのやりとりというのにも元々抵抗がある。
とはいえ、学校や職場で自分だけチョコが貰えないという状況には、きっと誰しも嫌な気分になる。
そして貰えると何かをクリアしたような気分になるのも微妙に滑稽である。

バレンタイン、私が小学生の頃からあったが、それは女子からの「恋の告白」という特別な意味を持っていた。
しかし今や「女子から告白」というのも時代錯誤となり、告白ではなくもっと大きなカテゴリーとして君臨するこのイベントの策士は一体誰だったのだろうか。
などと考えながら当日になると、多少ではあるが知人からチョコをいただくことになる。
もちろん、バレンタイン無視派の私が、誰かのためにチョコを買うことはないので、その日は貰いっぱなしである。
毎年「あげない」私を主張しているのにもかかわらず、いただくという根強いイベントとなっている。
そして結局ホワイトデーにお返しをすることになり、毎年きっぱりとその関係を断つことができない気弱な私なのである。

社会人である夫も当然のように義理チョコをいただいてくるのであるが、ここ数年、チョコのレベルが中級ブランドチョコへと変化しつつあって、このイベントの心理余波が長引くことになってきている。

モロゾフあたりでいいのに、ゴディバやマキシムドパリ、デメルなどを貰ってくる。
ジャンポールやピエールまではいかないものの、一粒が普段食べるチョコの数十倍のお値段である。
たかが、職場のおじさんのために買いに行くという労力もあり、ご負担をおかけします、と頭が下がるのだが、我が家では、ここでつまらない問題がひとつ発生する。
いただいたチョコであるが、実は夫はほとんど食べない。
いただいた方への礼儀として一粒程はお味見するのであるが、残った粒はほぼ私の胃の腑に落ち着くこととなる。
そしてこのブランドチョコをいただくことになる私の舌、この舌が問題なのだ。
おごそかに一粒とって、口にいれる。
舌がチョコの存在にとまどいつつ、その粒に触れると期待の唾液で口中がときめく。
が、舌の上か下か分からない場所で溶けはじめたこのチョコの良さがわからない、という悲しい事実が私を直撃する。
期待が大きい分、「えっこれがあの有名なチョコ?の味なの」となる。
舌がうなるようなチョコ、ではなく、舌がうなだれるチョコの味。

そう、確かに濃厚かもしれないし、そういえばとろける感じが、滑らか、かもしれない。
でもこれと私がよく購入するグリコやロッテ、明治、しいてはカバヤのチョコとどう違うのか、恥ずかしながらほとんどわからない。
ゴディバゴディバと女子たちがうるさかった一昔前、一粒300円ほどするチョコを食べてみたこともあった。
だが、チョコはチョコの味なのであった。
深い味わいとか高級な舌触りとか、今もって実感できない形容詞のブランドチョコ。
ナッツやリキュールなどの混じり物のないチョコが出す味はやっぱりシンプルなのだと思う。

最近はカカオマスが第一原材料となるカカオチョコなるものが増えてきて、そちらの味は「チョコ」っと違うな、と思える。
だが、これはチョコというよりカカオのカテゴリーかもしれない。
カカオを焙煎して手作りのチョコを売る職人たちも巷では話題となっているので、カカオさんはカカオとしての美味路線を拡大してほしい。

とはいえ、世の中には一粒数千円も数万円もするチョコもあるというのだから、驚く。
そろそろ、高い = おいしいとは決して思えない私の美味チョコしきい値に安心するおやつの時間がやってくる。