本当なのか、それは、と帰宅の電車の中でふんわりと考えていた。
ふんわりしてしまうのは、1時間に1本しか運行しないローカル線に乗っているせいだろうか。

行きは、車両も3つ、相向かいの4人掛けの席が旅気分を誘う。
車窓越しに見える里山の秋が、しっくりくる古ぼけた車両に揺られること40分。
一駅区間が平均8分というのも中々よろしい。
降り立つ駅が無人駅というのもかなりよろしい。
これから行く、葬祭的所用にはなかなかよろしいシチュエーションで私の背中もそれなりに丸まって風景の中に沈みこむ。

2時間ほどを友人宅で過ごし、帰宅する頃にはとっぷりと日も暮れて、と、まるで日本昔話のような漆黒の夕暮れ時の帰宅となった。
なにかをひきつれている? ような気がするのはなぜだろう。
40年前の面影に遺影となって再会したせいだろうか。

帰りの電車はさらに車両が少ない2両編成に遭遇。
しかも、乗り込んでいる人もまばらで、ジョバンニとカムパネルラが座っていそうな銀河鉄道の夜状態である。
行きは空いてなかった4人掛けの席を独り占めして座ってみる。
窓ガラスに映る自分の顔の後ろが妙に怖い。
向かい側の席がぼーっとぼやけている感じがするのは、早めにきかせてくれている暖房のせい、そう思うことにして、「本当なのか、それは」の続きに思いを巻き戻す。

「死ぬ1週間前位からなんだよね、眠っている父が突然、右手をあげるんだよね。で、手を振るんだわ、なんかスローモーションで」
と故人の懐かしい話から、「死」というキーワードで話が転換ていったのだが、その場にいた5人のうち3人が「手をふる」のを見た体験者であるという。
それぞれ祖母、祖父、父、の死ぬ前の出来事であるらしい。
意識があるのかないのかわからないのだが、目覚めた本人に聞くと「死んだ弟がきた」とか「親戚のだれそれがいる」とかそういうパターンらしく、友人たちは祖母や祖父がそれほどすぐに死ぬとは思っていないので、寝てばかりいるので夢でもみているのだろう、と思っていたらしい。
が、後日考えると、大抵その数日後に亡くなっていた、という話になり、「ぼけてただけでしょ」で終わらない展開となった。

「おいでおいで」なのか「さようなら」なのかわからない手フリ現象。
キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」を読んだのは遠い昔の20代であったが、その話の記憶を必死に思い出すべく、真っ暗な車窓からの夜を眺める。
しかし、しかしだ。
線香の煙に包まれながら、5人中3人がその話を身振り手振りで話すので、それがありなら、死んでも決して楽ではないのか、と私は別の次元で沈み込んだ。
死んだら無になって、身体も意識もなくなって、当然宇宙の塵あくたのように消える私であるはずなのに、誰かのお迎え係りになるかもしれないのか、とちょっとがっくりな私になっている。

このまま、銀河ステーションにでも行ってしまいたくなる晩秋の1日となった。