15年物の古ぼけたママチャリが私の移動手段である。
ママチャリとはいえ、一応3段ギア付きのオートライトである。
雨の日も風日も、たまには小雪の日も、自力エネルギーで動くこの車両のおかげで私の行動範囲は広がる。
たまにパンクすると、このママチャリが私にとってどれほど必要不可欠なものであるかを知ることにもなる。

ママチャリがなければ歩けばよい、のだが、食料品や日用品の買い物などとなると、行きはよいよい、帰りはつらい、なのだ。

しかし、この年代物ママチャリ運行に際して、多少の問題点を抱えているのではないかと、最近改めて思うのだった。
それは、その問題点と向き合うのが、今年に入り、とうとう5回目となったせいなのだが。

2日前の秋晴れの日の郵便局からの帰り道、午後2時、というまったりした時間。
道行く人々も穏やかな表情でのんびりと歩く人ばかりであったが、私はまったくだらない雑用が目白押しで時間に追われていた。
次の信号をスムーズに渡りたい、とママチャリのペダルを快速便にした途端、後方あたりから「すみませーん、こんにちは、すみませーん、ちょっとすみませーん」と若い男性の声が聞こえた。
なんの勧誘であろうか、誰に声をかけているのであろうか、その程度の意識が脳の端にちびっと浮かんだが、快速便の私の足は青信号目指して回転を早めるのみ。
が、その声はかなり近くなっていて、しかも「すみませーん、ちょっと止まってくださーい」と変化している。
ふと見ると私の周囲には誰もいない、となると私に「止まってください」なのか。
嫌な予感である。
そういえば、郵便局から通りへ出たとき、自転車のおまわりさんとすれ違ったような、でもあのおまわりさんは私と反対方向へ向かってたよね、そのおまわりさんがまた舞い戻ってくるなんて、まさかの坂道だよね。
だが、真坂の坂で、Uターンということももありかも、と瞬時に脳が反応し、私の不愉快な記憶が津波のように押し寄せる。
そう、このパターンで追いかけられたのは何度目だろう。
遠い記憶を思い出すと、30代後半からうんざりするほどの回数である。
仕方なく、速度を緩め、振り向くと、案の定、ガタイのがっちりした四角いイメージの「ヤツ」がいたのであった。
おまわりさんを「ヤツ」扱いしたくなるのは、毎回この瞬間である。
決して毎日の公務ご苦労様、などという感謝の念はない。

おまわりさん、結構追いかけてたらしく、ぜぇぜぇしながら、止まった私を見て「すみませーん、すみません」と下手に出ながらも、「この自転車はお宅のですか?」などと失礼なセリフをふりまく。
「ちょっと登録を確認させてください」と、これまた私への泥棒疑惑の片りんの一言。
お時間はよろしいですか? の一言もない失礼な態度である。
しかも、歩道の真ん中。しかも、信号はすでに赤。そして歩く人々の「あらー」の視線。
以下、私とヤツの舞台劇である。

私、淡々とした表情で
「ちょっと、あっちに場所移しましょうか」とコンビニ前の駐輪場までさっさと移動。
ヤツ、
「あっあっそうですね。そっちのほうがいいですかね」と言いながらついてくる。

私、もううんざりよ、という表情で
「今年に入って5回目なんですよねー。さっさと調べてください。ものすごーく急いでるんです」
と、私の所有物に間違いないことを言葉の端々にのせ強調。

(実はこのようなことがかなりの頻度で起こるようになり、いつも防犯登録証を持参しているのだが、その時はなぜか探しても見つからなかった)

が、ヤツはおまわりさん独特のポーカーフェイスのまま、がーぴーうなる無線で登録番号の確認を始めてるのみ。
ルールにのっとった規則正しい行動を私はしています、的な職権乱用ぶりである。

昼下がりののんきなおばさんには、貴重な時間などないと思われているようなのがしゃくにさわる。
そして、そう、このあたりで、普段からこの職権乱用に二言三言もいいたい私のパンドラの箱が開いてしまうことになったのである。

私、チャリンコのベルを無意味に鳴らしながら
「あなたは初めての顔だけど、私、同じ人に2回止められたこともあるんですよね。その人には顔通、になっちゃってますけど、今度からその人に確認とってもらえませんかね。」
「あっ、もしくは、私の名前とこの登録番号は止めないように、所轄内で登録してもらえませんかね」
と、精一杯の嫌味を連発。

しかし、ヤツはそんなおばさんにも慣れているのか、相変わらずの上から事務目線のまま、
「いやー、そうなんですか、でもこれ規則なんで、自分も確認しないと。あっ、あっ、ちょっと待ってください」

「りょーかーい」

「あっ、確認がとれましたので、行って結構ですよ」

と、お忙しいところ、すみませんの一言もなく、あっけなく終わりなのである。
その間、たかが10分か15分ではある。
普通の人ならそのまま「なんだかな」で終わるであろう出来事であったろう。
だが、この日、この秋のまったりした昼下がり、私は思ってしまったのだ。
「どうして勝手に止めた後、お詫びがないのか」と。
「どうして私を止めたのか」と。
こういったことが、誤認逮捕につながるのではないかとさえ思えてくる。
私を止めた理由が知りたい、毎回お別れする前におまわりさんにきく最後の言葉であるが、これは大抵決まっている。
「鍵がついてない」ように見えた、である。
前タイヤにきちんとついているのにである。
そして確認されるのは、市民の義務であるらしい。ゆえに本官の辞書にはお詫びの言葉はないということらしい。
お詫びの対象ではないということか。

帰宅後、家人に、なぜ私ばかりがつかまるのかと憤怒の表情で訴えると、「余程チャリに困ってる人相に見えたんだろ」と軽い一言でしめくくられたのであった。