全くの他人、なのに顔見知り、という人が私にはいる。
名前もどこに住んでいるかも知らない人、なのに知っている人。

自慢ではないが、日々、行動半径1.5キロの日常生活を送る内向型人間の私。
知人も友人も少ないので、私の出かける先は悲しいほどに直線的である。
外出先の筆頭頭は、主婦にとっては必須の場であるスーパーマーケット。
近辺の3店舗をチラシチェックをした後、日替わりで巡る典型的なチラシ主婦と自負する。
月に2度ほど週末になると気分転換もかね、駅ビルのこじゃれた食品売り場にも行き、行きつけのスーパーで手に入らない商品を物色したりする。
あとは週3回のバイト先に、週1回のストレッチ教室と車で30分ほどの温泉施設、これだけが私の行動範囲である。
そんな私の生活に「眉毛さん」が登場して3ヶ月ほど経った。
眉毛さんをよく見かけるようになって、2年ほど前までよく見かけたエプロンさんのことを思い出した。
最近はほとんど見かけなくなってしまったエプロンさん、違う街へ引っ越したのだろうか、と思い出にひたる。しかし、この狭い行動半径の私とかぶる人がまた登場、ということになった。
眉毛さんととりあえず呼ぶようになったのは、連続3日間見かけるようになってからだ。
「えっ、またあの人」というより、「眉毛さん」と呼んだ方がピンとくる太い眉毛の持ち主だったせいもある。
多分年齢は60を少し出たところのちょっと太目のおばさんであるが、おばさん群の中に入ってしまったら全く目立たない地味一筋の姿形である。

だが、3日連続で見かけると、そのこと事態がささやかな事件となり、かなり印象に残る。
3度目になると見かけるというより、「あっ、また会っちゃった」という不自然な面持ちのまま、すれ違うことになる。
連続事件の後も、週に1度は見かけるようになり、相手もいよいよ気づいたようなのが、また気にかかる。

先日、隣町のスーパーの店内で眉毛さんとすれ違った時はかなり驚いた。
ここは私のテリトリーではない場所である。たまたまここでしか買えないものがあって冒険がてらきたスーパーである。
こんなところにまでこの人が、みたいな驚き。
しかも、驚いたと同時にまさかねーという確認の意味で振り返ってしまったら、眉毛さんもこちらを見ていたのである。
ぎょっ、という言葉通りに目まであわせてしまった後、お互いになぜか変な物見ちゃった、という気分になって足早にその場から逃れる、ような状況になっていた。
平日の2時過ぎ、お客もまばらな時間帯の隣町のスーパー、あり得ない確率である。

たが、このあり得ない確率が更に続くことになったのだから、人生はやっぱり不思議なもんである。
第1のシーンがスーパーなら、第2のシーンは、ストレッチ教室である。
ある日、いつものようにストレッチ教室の受付を済ませた後、教室に入ると、眉毛さんが保健師さんとして相談コーナーに鎮座していたのである。
いつもの保健師さんの代理のようであるが、なんでここにいるの、と思わずその日は回れ右をしてストレッチ教室を休みたい気分になった。

第3のシーンのシチュエーションはさらにやめてほしいと願うような場所での遭遇であった。
しかも、お互い、見たくもないものをみることになるという状況が避けられないそんな場所。
そう、私の残された最後の砦である温浴施設なのである。
2つの市を通り抜けて車で訪れるその温浴施設は山を切り崩して出来た住宅地にあるせいか、ちょっとした森林浴気分も味わえる。
私にとって車で30分程かけても週に1度は通いたい癒しの施設である。
施設内はアロマの香りに包まれ、入室した途端、心はもう屋外にあるお気に入りの炭酸泉へと鼓動が早まる。
炭酸泉は人気のゾーンなので、常に混み具合が気にかかる。
かけ湯をしながら屋外に目をやると、本日はまずまずの空き具合で、のんびり感がまた広がる。
が、ふと入浴している人々の数を数えようとして視線をやると、ボリュウムたっぷりごま塩髪、ショートヘアの見覚えのある横顔が目に入った。
なんとなく、似てる、髪型。横顔の頬の膨らみかたも、ちょっと似ている、でも、絶対的に「まさかね」の私は、ためらうことなく炭酸泉めがけて直進する。
心地よい泡に包まれるはずのその一足をお湯に入れた途端、眉毛さんの驚きの表情を確かに私は確認したのであった。
偶然が数を.重ねると運命になるのであろうか。これが思いをよせる相手ならどんなに嬉しい偶然だろうと余計なことを考えてみたりする。
その日の温浴日和は、どうやって眉毛さんとかぶらないゾーンに行こうか、ということばかり考えて全く癒されない1日となってしまったのはいうまでもない。
眉毛さんと最後の遭遇をしてからひと月が経った。ぎょっとしているのは私だけではなく、眉毛さんもであろう。そのせいか、最近は眉毛さんを見かけることがなくなった。きっと相手も出会わないようにと行動半径を変更しているのかもしれない。
しかし、私のささやかでシンプルな日常にかぶる人、そんな人がまた出てくるのであろうか。