困った場面に出くわした。
こんな時、どうする、どんな私を演じる? という場面である。
月に2度程通う民間のストレッチ教室はトレーニングジムと併設されている。
教室が始まる30分前に教室の外のベンチに座り、ガラス越しに見えるジムの健康そうな坊ちゃん達を眺めるのが結構楽しい。
怪しいおばさんの趣味の世界かもしれんなー、と自分を冷静に見つめなくてはとも思うのだが。
特に、くっきりとして美しいアキレス腱、これに弱い私は彼らのアキレスを眺めていると、ないものねだりの足首がうずうずしてくる。
いいな、あんなアキレス、来世はあんなアキレスの持ち主に生まれ変わりたいなどと一人ごちている。
坊ちゃん達はアスリートのような体型を維持し、かたや、たまに紛れ込んでいる老坊ちゃん達は鍛えて薄くなったのか、老いてたるんだのかわからない体型で私の目の端にに飛び込んできたりするのがたまに傷である。
若坊ちゃん達がトレーニング器具を自在に操るたび、立派な筋肉の筋が無毛の脚に浮き上がる。うーん、最近の坊ちゃん達の脚には毛がない、ということにも驚く。
多分20代までの坊ちゃん達の無毛率はこのジムで80%はあろう。若い女の子並につるつるである。まさか脱毛とかしてるのだろうか。
坊ちゃん達と話す機会は皆無のおばさんの環境であるが、たまに聞きたくて仕方なくなる。ああ、息子を産みたかったと衝動的に思う瞬間でもある。
そんなある日、教室へ向かう通路で、坊ちゃんA君が大変なものをぶら下げて、私の前をのんびりとジムに向かい歩いてゆく後姿を目撃してしまったのである。
通路の奥にあるトイレから出てきたのだろうか。
とても不思議な後姿で、一瞬それは新しいスポーツパンツなのかとも思えた。
しかし、よく見ると、ブランド物のおしゃれな短パンに挟まったトイレットペーパーの切れ端が膝の裏あたりまでふーらふーら伸びている、という後姿であった。
笑うしかない場面である。遠慮なく声を発せずお腹の中で大笑いしてしまった後、あれはだめでしょ、と瞬時、ちょっと善良で悲しいおばさんの心が叫ぶ。
その間、1分。もうすぐジムの自動ドアだよ、どうする私、の場面なのである。
幸いというか、不幸にもというか、通路には私とA君だけが優雅に歩いている。
怖いもの無しの年老いた老婆のごとく「ちょっとそこのあなた、お尻の始末が中途半端のようでごさんすよ」と言うべきか、それともそのまま、ジムのトレーナーの「気ずき」を期待するべきか。
A君の気持ちに傷を残すことなく、その事実をどう告げるべきか? などと苦渋に満ち満ちた一歩一歩なのだが、A君は腕を軽く回しながら、己のまずい状況に全く気づかずジムの扉に近づいてゆくのであった。
見ず知らずのおばさんひとりに見られちゃったなーという傷口とジムの室内で数十人の人達に見られちゃう傷口の量を推し量ると、私の声かけでの方がよろしい選択のような気がする。
余計なことに首を突っ込むおばさんを演じるべか、ここは、と足早になる私であった。が、背後に迫るおばさんオーラを察したのか、A君は私以上の足早となって、あれよという間にジム室内の人となってしまったのである。
ガラス張りの室内にぺたーっと張り付いて、A君の姿を追う私。
ウエストから伸びたトイレットペーパーシングルとしか思えない物体をぴらぴらさせながら、A君は早速流しストレッチを始めている。
トレーナー、トレーナー、早く声をかけなさいよ、と私の焦りが頂点に達する。
軽いストレッチをしながらA君はトレーナーのいるカウンターへ近づき、カードを提示。そしてくるりとトレーナーに背を向けた。トレーナーのにこやかなお見送りの視線が確実にA君の後姿を捉えている。
今でしょ、今、何かに祈るような気持ちで私はトレーナーのさりげないフォローを待っていたのだが、トレーナー氏は、笑顔が少し変化しただけで、A君から静かに視線を外し、カウンター業務へ戻っている。何事もなかった?のか、彼にとっては。
もしかするとよくある出来事? なのか、あれは。 
まさか、ね。私の中で??が渦巻いたまま、既にA君はジム内の最初のマシンへと弾んだ足取りで移動しつつある。
数人いる坊ちゃん達の視野にA君のぴらぴらは確実にさらされている。
なのに、なのに、誰も何も言わないのである。あの姿にひと声かけてあげることは、迷惑なのか親切なのか、確かに判断は難しい。だが、そんな迷いをおくびにも出さず坊ちゃん達はわが身の鍛錬にいそしんでいるようである。
そうか、これがいわゆる今のご時勢というものなのか、と私も急に何もかも受け入れましょうという妙な気分になる。
マシンを使う内に、きっとあのぴらぴらは切なく切れることであろう。
その時、何事もなかったようにA君はぴらぴらを丸めてポイするだけかもしれない。
よく考えたら、彼らにとってあんなものは、そう、大したことじゃなかったのかもしれないと思い直す方が、お互いにとって、とても良い結果を生みそうである。
ここでジムとは無縁のおばさんが坊ちゃん達を眺めている方が、余程トレーナーの不審感を呼び覚ますかもしれないのだ。
ふと我に返ると、既にストレッチ教室が始まっている。
今やストレッチどころか、100mを全力疾走したような疲れがどっと出た私はよたよたとストレッチ教室へ向かう。
さようなら、A君、さようなら、トイレットペーパーシングル、と心にそっと呟きながら。