また、私の古い記憶を呼び覚ます漫画家の名前を夕刊で目にした。
大抵は片隅にひっそりとしたラインで区切られた死亡記事の欄の中で見つける。
あっ、○○先生、亡くなったの? 先生が、先生が、と新聞を手にあわあわしていると、夫が「誰の先生?」と全く別の次元で驚いてくれるのも毎度の展開である。
なんで先生なのかわからないけど、小さい頃から漫画家の名前はフルネームで覚え、その下には必ず先生をつけていた。   
懐かしい漫画家の名前に出会うと、私の思考はあっというまに8つか9つの頭になってしまって、思考回路はあの頃の「漫画と共に生きていた私」となり、諸事雑事は一切停止する。
私の本格的な漫画デビューは、小学2年生の夏で、あの日、あの場所、あの日の服装まではっきりと覚えている。
多分、初めて買ってもらった漫画雑誌の衝撃つながりで、その場面が停止した映像のように記憶されているのだと思う。
母の田舎に帰省するために乗り継ぐローカル線のM駅。
次の電車まであと1時間。
現在では考えられない乗り継ぎの悪い運行状況だが、当時は目的地に電車で行けるだけで幸せな時代であった。
そしてその待合時間があったおかげで、私は駅の売店でただ単に「女の子向きの雑誌」という概念しか持たない母から、その1冊を買い与えられたのだから、運命の1時間ともいえる。
「別冊少女フレンド」、初めて手にした漫画本の名前はそれ程印象的でもなかった。
3㎝ほどの厚みがあったろうか。中を開くと、小学校1年の頃から貸本屋(昭和言葉ですね)で読んでいた漫画とは違う世界が広がっていて、これも漫画というものなのだろうか、と多少とまどった。
貸本屋で読んでいたのは兄の影響もあって、主に男性が書く漫画だったが、少女フレンドに広がっているのはきらきらした瞳の少女心をくすぐるお話が満載なのであった。
最初に読んでしまったのが、青池保子先生の「グリーンヒル物語」。登場人物の名前は、ジョージ、エミリー、となぜか外人の名前。内容は隣り合う2家族の物語で、何となく「若草物語」を髣髴させる感動ものだったと記憶している。
思えば、その頃からはまりやすく、しつこい性格だったのだろう。小2にして、漫画三昧の日々へまっしぐら、ということになった。
漫画購入のためにおこずかい制度を導入してもらったものの、月に何冊も買うことはできず、漫画好きの友人達と交換しあっての努力の日々。
小4になってからは、そろばん塾で毎週発売する4誌の漫画雑誌が読み放題という情報を得て、母親にお願いしてそろばん塾に通うようになった。もちろん、漫画が目的とはおくびにも出さない。
そんな一心不乱的な努力もあって、小6までに購入した単行本がなんと100冊となっていた。
月刊誌を購入しつつなのだから、かなり立派な偉業である。今の自分にこんな努力はもうできない。
あの100冊の単行本たちよ、あの子たちはどこへいったのであろうか、と、懐かしい先生達の訃報を知るたびに思い返す。
捨てた?売った?あげた?どれにも覚えがないのである。
アタック№1全巻に始まる浦賀千賀子、一条ゆかり、もりたじゅん、大和和紀、忠津陽子、鈴原研一郎、和田慎二、陸奥A子、田淵由美子、くらもちふさこ、西谷祥子、岩館真理子、太刀掛秀子、(先生略)といった昭和ガーリー時代を支えてくれた私の漫画達の行方。
単行本との最後の記憶は、中学校3年の春である。
父親とケンカをして、なんちゃって家出を企てた時、100冊の本を大きな紙袋2つにつめ、近くのレンゲ畑まで必死に運んだ記憶がある。
私にとって、命より大事なこの単行本を持って出たということは、大変なことなのだよ、というパフォーマンスを母親に知らせるためでもあったのだが、夕暮れになっても誰も探しにくることもなく、結局、とぼとぼとまた重い袋を抱えて帰宅した切ない思い出でもある。
あれが100冊本へのはっきりとした最後の記憶で、その後どこであの本たちがどのような末路をたどったのか、いまだにわからない。
懐かしい先生方の名前を思い浮かべるたび、100冊本の行方を思い出し、無念の気持ちが湧き上がって、泣くに泣けない。

そろそろお迎えがきそうな私にとって、この世に心残りがあるすれば、本当にこのことだけなのである。