この1年、両者の間には越えられない一線があるのだった。
両者とは、正確にいえばひとりと一匹。詳細に言うと私と「みー」と名付けた性別不明のたぶんノラ猫。
今日も朝6時、雨戸をあけると、たぶんノラ猫の「みー」がいる。
最近では夫にも言わない「おはよう」がこの猫を目にした途端、口をつく。
会話など成立しないのはわかっていて、なぜ人間というのは動物に向かって平気で話しかけるのだろう、と前々から実は思っていた。
思ってはいたが、愛犬家や愛猫家が周囲に多すぎて、こんなこと思っているとわかっただけで、交友を断たれそうでたまに思い出す秘密のひとつにしてあった。
どちらかといえば、犬より猫の方が好きかな程度の私が、この「みー」にだけには、なぜ、意に反して話しかけてしまうのか。
理由は単純、猫の形としてとてもバランスがとれていて、しかも白地に茶、黒、山吹色のちょんちょん模様が美しいという、猫という領域を越えた外見に惹かれました、というもの。
初めて見た時は、近くの飼い猫だろうと思えるような汚れのない毛並みに、散歩コースを変えたどこかの飼い猫かと思っていた。
横顔を見せて庭先を見ているビー玉質感の目つきも、余裕のある猫魂を宿しているような潤い感があり、あなた、前世は人間ですね、とつい尋ねたくなる。
そうだ、そんな君にいいものをあげよう、と身勝手な人間様の上から目線の感情がむくっと湧き上がり、いいもの探索回路が発動する。
朝の残りの魚の皮がキッチンの三角コーナーにまだあったはず、と早速つまんだ皮を与えようと、一歩近づく、その途端である。えっと思うまもなく、視界から消え去ったのである。猫っ飛びというものがあるのなら私は今、それを見たのだと思った。
1m先でゆったりと置物のように鎮座していた美しい猫の素早い逃亡を目にしたその瞬間、これはノラかな、と考えを改めたのであった。
飼い猫は、見知らぬ人間にもそれほど怯えない、というのが定説である。
ちょっといつもと違う顔だけど、逃げるほどでもない、ましてや大好きな魚の匂いを携えた物体が近づいてくる状況、食べたい気持ちを単純に選んでしまうのが飼い猫のはずである。
そう考えるとやはり、あの素早い逃亡の仕方は、たぶんノラ猫、ということになる。しかし、「たぶんノラ猫」と毎回呼ぶのは面倒なので「みー」と呼ぶことにしたのだが、1年たっても全く反応しない猫ぶりである。
反応はしないのだが、半年を過ぎた頃から私を見て逃げることもなくなった。
その3ヶ月後には、1mの距離にまで近づくことを許されるようになり、1年を過ぎた頃には、とうとうベランダのタイヤ置場が「みー」の餌場として確立しつつあった。
訪問日も週休3から週休2日となり、最近では1日に2度訪れるという餌狙いの普通のノラ猫レベルに近づきつつある。
両者の距離間は50cm程に縮まりつつあるだろうか。
「みー」の小さな脳にも私の記憶が少しはインプットされてきたのではないかと、少し有頂天になり、大胆な計画が頭に浮かんだのは、餌を食べるみーの白い和毛を眺めていた時である。
この機を逃すまい。餌場を居室内にしてみる、という作戦。
そして、あわよくばその和毛にちびっと触れてみたい、という作戦を明日、決行してみようと。
この掃きだし窓の8cm程の桟をまたいで、この古びた和室の畳に足を踏み込めるか、みーちゃん、今日は両者ともに心の準備が足りないから、明日、明日からにしましょうね、と、50cm先でハート型のキャットフードを食べるみーに心の声で話しかけている私、ふと見上げた時計は既に昼近くになっていた。

しかし作戦決行の当日、私のよこしまな心を見透かしたのか、みーはいつもの時間に姿を見せず、ようやく姿を見せたのはそれから1週間程ほどたった頃であった。
もう来ないかも、と心のどこかでしんみりと思っていたせいか、みーを見た途端「あらあら、みーちゃん、お久しぶり」などと話しかける猫バカぶりを発揮しつつも、
ついに作戦実行、実行と用意していたキャットフード生バージョンを取り出し、まずはタイヤ置場へおいてみる。
いつもより高級なエサに鼻孔をひくひく膨らませたみーがタイヤ置場に飛び乗り、早速、かつかつと食べ始めた。
よしよし、ここでよくこの味を覚え込ませておこうと、もう一度同じ場所へエサを置く。既に高級な味わいに酔いしれているみーは、私が近くにいることもあまり気にならない様子。
よし、次は室内でしょ。いくよ、ここだよ、ここに置くからね、みーちゃん、頑張ろうね、って何を頑張るのだろう。
30㎝程開けた掃出し窓のこちら側、つまり室内にキャットフードを置いてみる。
窓の桟を跨いで、10㎝程の場所である。最初からハードルが高いだろうか。
さぁ、どうするみーちゃん、と私は塑像のように固まったふりをする。
食べたい、でもそこはなんかいつもと違う異空間ではあるまいか、という表情のまま、みーも塑像のように固まっている。
その間10分。全く微動だせずのみーに、さすがの私もこの朝の貴重な時間をあんただけにかまっているわけにはいかんのよ、ときっぱりとあきらめ、窓を閉めようとした。
すると、みーの左前足だけが、エサをかき寄せようと閉まりゆく窓へそろっと伸びたのである。これって、化け猫のおいでおいでの手だよなーっと思いつつ、おっ、くるのか、みーちゃん、と閉めようとした窓から手を離す。
左前足だけが桟を1㎝程またいだものの、あとの3本足は外側のタイヤ置場に固定させたままである。
猫のアクロバット状態、もしくは、敷物状態である。猫の骨の見事な柔軟さに驚くものの、一向にその姿勢から進歩のないみーである。まさにフリーズする猫。
この中にだけは入ってはいけない、この一線だけは越えてはいけない、という動物的勘の頑固さは、やはり野良たるゆえんか。
この態勢でエサを食べてもつらいだけのような気もするが、すぐに逃げられる態勢の維持というのも見事な野良魂である。
この日、みーは30分程の混迷時間の末、室内のエサを食べることをあきらめ姿を消した。
考えるに猫にとって、外と中の違いは何なのだろう。ベランダのタイヤ置場も垣根に囲まれた空間である。一歩踏み込んだだけで、天井や壁が視野に入るとも思えない。
結局1年たっても、両者の信頼関係はまだまだであることを思い知らされた日でもあった。
遠い昔母が言っていた言葉に、「猫とは人につかずに家につく」というのがあったが、それは本当であるなと痛感した日でもあった。
だがしかし、私は和毛へのタッチ欲望をあきらめたわけではなかった。
みーが訪問するたびに、私はこりもせず、同じような作戦を繰り返していた。
そんなある日、時間を無駄に過ごす私を見てあきれたように言った夫のひとことであっけなく、みーは一線を越えてしまったのである。
やってみれば、そんな簡単なことで良かったのか、とも思うのだが、当然といえば当然のような気もするその作戦については、後日解説しようと思う。
とはいえ、いまだに和毛へのタッチもできず、両者50㎝距離は相変わらず縮まらないままである。
そして、これから先、みーと約束のない交流がいつまで続くかは神のみぞ知る、なのである。