その日は3月の最後の日曜日であった。
午前中にだらだらと掃除を終えると、いつものように重い腰をあげ、買い出し一人旅に出かけた。
少し遠いスーパーを回ってから本屋を覗いて帰宅、その所要時間わずか2時間。
帰宅後、いつものように自転車を駐輪場に置き、いつものようにドアの鍵を開けるためにアパートの通路に佇み、バッグから鍵を出す。が、その瞬間、いつもの空間になんか違う空気? が漂っていることに気付いた。
あれっ、隣の部屋の玄関灯がついている、昼間なのについている、確かについている。
リフォームのおじさんがまた来ているのかとも思ったのだが、それにしては敷地内の駐車場にはそれらしき車はなかった。もしかして今日は向かいのコンビニにでも置いたのだろうか。
1月末に空室となり、それから1か月程かけて大がかりなリフォームやっていたのだが、まだ何かやり残したことがあったのか、と少し不思議に思いつつ、この時点で何となく気になる私から、ちょっと気になるよ、の私になってはいた。
しかし、だらだら日曜は時間に追われる。そんなことより、洗濯物を取り込まねばという立場上主婦のとめどない家事労働をこなさねばならない。
買い物袋をの中味を仕分け収納した後、洗濯物を取り込むためにベランダの掃き出し窓を開けた。えっ、なんか違う。右目に映る景色が違うような気がする。ちょっと待ってね、左目さん。
右に顔を半回転させ、両目でしっかりお隣さんのベランダを視界に入れる。
物干し竿1本にピンクの布団ばさみ2本と緑色のビニール袋がぷらーっとさがっている景色をキャッチ。
あれ、買い物に行く前にはなかったよね。でも、このアパートの物干し竿は自前だよね。ということは、わずか2時間で誰か引っ越ししてきたということでしょうか、奥さん、と自分に問いかけつつ、まさか2時間で、ありえないでしょうと、奥さん、と答えつつの私の目の前を洗濯物が呆然とひるがえる。
こうなると、さっきの玄関灯の謎を確認したくて仕方ない。
お隣さんの玄関前へ忍び足で直行。表札なし、確認、キッチンの窓が少し空いている、なんとなく誰かいそう。
そういえば、隣室のベランダからエアコンの室外機の音がしていた。引っ越し、2時間、今までの隣人の中ではもちろん最短時間であるが、ちょっと短かすぎないか。
このご時世、入居後、挨拶のためにドアをたたくのは独身、家族持ちにかかわらずかなり少ない。当然この「2時間隣人」は挨拶などこないだろうから、どんな隣人が入居したのかの情報はいつ判明するのだろうか、今夜からどんな生活音がしてくるのかと、多少の緊張感が私の交感神経を震わせる。
夫が仕事から帰宅すると早速、今日のトップニュースとして「2時間隣人」の話題を仕掛ける私に「隣室の2部屋とも灯がついていたね」と夫は私をチラ見したのみの寂しい対応。
引っ越し時間にもさほど興味なく、トップニュースとしての輝きはどこへやらである。
隣人とはいえ、中々合わないのが地方のちょっと都会のアパート暮らしである。
たった5分差でそこにいた人は今いない、という状態のまま、このアパートの他の住人達も見かける機会は少ない。
とはいえ、歩いてナンポ、の隣人である。接遇率はかなり高いはずだ。
外出時には我が家の玄関前を通るし、ゴミ捨て作業も毎朝ある。
きっと日常生活での接遇率はかなり高いはずだ。ここ数日中には性別位の情報は得られるであろうと思っていたのだが、性別に関してはあっけなくその夜に解明された。
夜の10時を過ぎた頃だろうか、キッチンで洗い物をしていると隣の玄関が開く音、続いて話し声とともに異様なすり足音が聞こえた。携帯で話をしているらしいその声は男性。
すり足音とともに我が家の玄関前を通過。なんだか数人いるようなすごいすり足音で、ふとムカデを連想して、洗い物の手が止まる。
そして、そのすり足音は、翌日から平日は毎日、きっかり6時35分我が家の玄関前を通過するようになった。
1週間経過しても表札はかからず、このアパート周辺では移動手段として必須のアイテムである自転車も置かれる様子がない。
駅まですり足通勤なのだろうか、と思っていると、どうやら部屋にはまだ人がいるようなのである。パンツ姿が外出した後も、エアコンのコンプレッサーの音はずっとしているし、雨の日には室内は煌々と明かりが点いている。もしや、奥さんがいるのだろうか?
しかし、洗濯物は一度も干されることはなく、ピンクの布団バサミは一向に使われることもない。
時折、隣室から野太い咳払いが聞こえるのだが、今までの隣人ではあり得えなかったような近い距離感に驚く。壁1枚隔てたそこにいる、というのはこういうことなのだろうか、とアパート暮らし30年で初めて気づくのであった。
そんなちょっと圧迫感のある隣人をようやく見かけたのは、入居してから10日程過ぎた早朝であった。その瞬間、頭におりてきたのは「家政婦は見た」の字幕がひらり。
目撃場所、ベランダ、目撃時間、洗濯物を干そうとしている午前7時、目撃した姿、ななめ横からの後姿、下半身パンツ1枚、上半身Yシャツ、目撃行動、親父足にねずみ色の靴下のままベランダにおりて、6畳の部屋から4.5畳の部屋へ移動中。
太目の四角い体躯に天然パーマ気味の短髪の30代後半~40代後半。
後で考えると5秒ほどの素早い瞬間に、これだけの画像を頭に定着することができたのは、やはりそのぎょっとする姿のおかげてあったろう。
なぜ、部屋の中から移動しないのか、しかも、パンツ姿なのだよ、君。そういうことに無頓着なわが夫でさえ、とりあえず外にちょこっと出る時もパンツ1枚というのはあり得ない。
パンツ1枚さんが入居してそろそろ半月が経とうとする頃、どうやら部屋には複数の人間がいるらしいということが判明してきた。
平日の出勤タイムに、たまたま後姿の違うおっさん2人を確認後も、部屋からは相変わらずエアコンの音と水廻りの音がしている。
時折、夜になっておっさん2人お揃いで帰宅する。しかも、ちょっと嬉しそうに会話しながら。なんだろう、ちょっと気になる。
昼間も人がいるらしい気配がずっとしている。部屋の中に誰かまだいるに違いない。
女性の気配は全くしないから多分もう一匹も男性のような気もする。
男3人?ってどうなんだろう。隣人として受け入れてよいのだろうか、などと考えなくてもいいことをふと考える。
そうか、もしかしてこのアパートも今流行のシェアハウスとしてデビューしたのかもしれない。それなら納得の男3人でしょう。
それに古いアパートとはいえ、管理会社が入っているのでそれ程怪しい人物は入居できないような気もする。が、今時の怪しさの定義が実に曖昧であるのも否めない。
すでにひと月が過ぎ、表札もない隣人たちは、毎朝すり足とともに私の日常をかすめるようにすり抜けていくのであった。