かつて周囲の人々から「丈夫な働き者」の称号をほしいままに享受していた母。
さすがに80才を超えたあたりから、とにかくよく転寝をするようになった。
最早、誰に気兼ねすることなく眠ってよいのだから、居眠りではなく、転寝である。
冬場は特にひどくなり、朝の一仕事を終え、二人で居間でテレビを見始めた時、ふと見る母は首をこてっと下に向け目を閉じている。
大抵はテレビを見ている最中だが、たまにお茶を飲んでいる時にも「こてっ」としている。横になることもなく、座椅子に腰かけたままの、首直角こてっ。
私の頸椎では到底耐えられないであろうその姿勢が苦にならない母の「首」に畏敬の眼差しを向ける。
もしや、80歳にもなると頭の中が既にスカスカ状態で、人並みの負荷がないのだろうか。いや老人の姿勢など、最早気にするほどのことではないので、それはどうでもいい。それより問題は、そんな母には転寝の自覚が全くない、ということである。
母の転寝最中、叫び声の多い韓ドラは煩いであろうと思い、テレビをそっと消すと、びくっと反応し「なぜ消すの」となる。
「今寝てたよ」
「寝てない」
「いや、今、歌1曲分は寝てたよ」
「テレビ見てたのよ」
「目も閉じて下向いてたよ」
「寝てません、テレビ見ているんだから消さないで」
と、はたから見れば全くどうでもよいような会話でささやかなバトルを交わす高齢親子の不毛な昼下がり。

実家で母と過ごしていると日に何度もこれを繰り返している。
毎日一緒にいたらそれこそ、挨拶代わりになってしまう位。
眠いのなら、誰に気兼ねなく、横になって寝てほしい、それが娘の願いであり、それを行うのも大したことではないように思える。
おかしな姿勢のまま寝ているのはやはり後々まずいのではないか、と心配症な娘は首かくっ姿を見るたび不安になってしまうのだから。
特に食後の転寝率は100%で、もしや病気ではないかと、無理矢理循環器内科に連れて行ったこともあった。
だが、高血圧といってもこの年齢で、上が130、しかも何の薬も服用していないなら、それほど気にすることはないという医者からのお墨付きをもらうと、最早、転寝は公認された生理現象のひとつとなり、多少の不安は取り除かれた。
とはいえ、相変わらず例の「寝てる」「寝てない」を実家に行くたびに繰り返していて、成果も得られていない日常は続いている。
しかしなぜ、母は転寝をしている自分を認めないのだろうか。
結局、暇な娘が考え続けて出した結論は、転寝=怠け者という定義 であった。
働き者は転寝などしない、それが私のプライドなの、という母の価値観がかたくなな「寝てない」をリフレインさせている、という結論。
寝ているのもきっとわかっているのだろうけど、それを認めたくない母の「働き者」としてのプライド。それでしょ、というふうに思うことにしたのである。80歳を過ぎて「働き者」と思われたいのだとしたら、それはそれで「すごすぎる」ことなのだろうし。
そして心配症の娘はこの先、転寝が転倒に進行しないことを願うのみである。