大切な人を失いました | 那津乃 咲のレッスン&わんにゃん日記

那津乃 咲のレッスン&わんにゃん日記

福岡に在住する元タカラジェンヌが、ダンスや歌のレッスンの事、日々のちょっとした事を皆さんにお伝えしま~す。

私には、親より大切に思っている人がいます。
それは私の両親もわかっているほどの人です。

初舞台の頃から応援してくださって、だんだん親しくなりお食事をするようになって、様々助けていただき、旅行にもご一緒して、私の家族とも付き合いが始まり、退団してからもずっとご縁が続いてどんな時でも私の味方で私を支えてくださった方。

初舞台の頃…少女から、大人の女性へ変わっていく私を両親よりも近くでずっと見守ってくださった大切な方。
時には関西から福岡に駆けつけてくださって、抱きしめてくれて一緒に泣いてくれて…そんな私の大切な方。

昨年、宝塚音楽学校の110周年記念式典の日、同期会が終わってお店に私の代表ちゃんと迎えに来てくださいました。
代表ちゃんの車で伊丹空港まで行って、飛行機に乗るまでの時間 喫茶店に入り私の目の前でいつも通りの笑顔で嬉しそうにケーキを召し上がっておられました。

私の大切な方は10年経っても、20年経っても、110周年記念の日でも、どんなに親しくなって私が「大阪のママ」と伝えていても全く変わらずにいつも丁寧に私に接してくださいました。

私の目の前で嬉しそうにケーキを召し上がっていた日から3日後、マッサージからの帰りに くも膜下出血で道中でお倒れになりました。
道行く方が助けてくださって、病院に運ばれ8時間の大手術を受けました。

手術は無事に終わったものの、障害と後遺症が残るとのこと。
「障害と後遺症はどのようなものですか?」と唯一身内の妹さんが聞きましたら「意識が戻らないという後遺症と障害です。奇跡は起こりません。」ときっぱり言われたと…。

ご結婚はなさっていたのですが、結婚4年目にご主人がお亡くなりになり それからずっと1人で生きてこられた方。
妹さんの他にお姉さんもおられたのですが、そのお姉さんは知的障害がありずっと7歳のまま。
施設には入っておられましたがその介護もありました。
そんなこともあり再婚もなさらず、そして妹さんは結婚もなさらず、2人で支え合って生活をしてこられました。

関西と福岡で離れているので、私は毎年母の日、お誕生日、7月、12月にはお花や日用品など送らせていただいておりました。
そうするとお礼の電話が必ずあって、そこでおしゃべりが出来るのがとても嬉しかった。
その時も7月でしたので、私がお中元代わりに日用品を送っていました。
すると珍しく妹さんからお電話があり驚きましたら、日用品のお礼とお倒れになった事を話されました。
とても落ち着いて冷静に全て私に説明をしてくださった時は何が何だかわからず… ちゃんと理解もしているし、受け止めているのだけれど頭の中が真っ白…そんな感じでした。

すぐにお見舞いに行きましたが、私を見てもあの温かく優しいお声で「なっちゃん」とは言ってくれません。
声をかければ少しまぶたが開いて、眼球が動くような事はありましたが、それだけ…。
私が「せっかく なっちゃんが福岡からわざわざ来たんだから、目ぐらい開けてくださいよ。なっちゃんって言ってくださいよ」と何度お願いしても返してくれません。
「お医者さんがどう言おうと私が奇跡を起こしてみせます。」と妹さんに意気込んでお見舞いに来たのだけれど奇跡は起きません。

その大阪の病院が厳しくて月に2回・15分しか会えないので、その日はそれで福岡に帰りました。

その後もその貴重な回数と時間の面会を妹さんにお願いをしてお見舞いに行きましたが「なっちゃん」とは言ってもらえませんでした。

先月からやっと毎日面会の許可が下り、妹さんがちょうどご都合が悪いということで、私1人で会いに行きました。
だいぶお痩せになっておられましたけれど、私が行けばなんとなくうっすらまぶたが開いて、眼球が動くから なんとか奇跡が起こらないかと…私が奇跡を起こすのだと…毎回行くたびに「私なら絶対に奇跡が起こせる。その方なら、私が行けば絶対に目を開ける。」そう信じて毎回行っていたけれど、いちばん大好きな「うたかたの恋」を歌って差し上げても目も開けないし、名前も呼んでくれない…。


姉妹で「胃ろうはやらない」と決めておられたそうで栄養は点滴のみ。
それでも寝たきりだから、カロリーを考えると入れすぎることができない。
血液の状態などから判定して今月頭からいわゆる「危篤状態」に入られていて、覚悟をしなくてはならないと思っていました。

そして、ご年齢のこともあり1度も目を開けることも、声を発することもなくお亡くなりになりました。

あまりにも思い出が多すぎて、お世話になりすぎて、何をどうしたら良いのやら。
私は福岡にいるし… ご葬儀はその妹さんお一人だけでなさると決めておられます。

昨年の末ぐらいになんとなく「2024年は別れの年になりそうだな…」とぼんやり思っていました。
母にそれを言うと「あなたのそういうのって当たったりするからね…」と言われて、こんなのが当たるのは嫌だなと思いました。
しかし1月には早速なつが亡くなりました。

「両親よりも大切な方」と妹さんに話すと、妹さんがいつも泣いちゃう。

初舞台の時初めてお会いした時、多分今の私より少し若い位だったと思います。
あれから35年…。

年齢を考えたら「仕方がない」かもしれません。
でも私にとっては「仕方がない」では片付けられないのです。

私の大切な人がいなくなってしまいました。