私の使命や天職に出会いたい

そう思いながらなかなかわからない。



私が何度か聞いた言葉に

「神様の美しい笛になる」や

「祝福の水路となる」
(ケイシーセンター会長の光田秀さん)

の言葉があります。




わたしたちには「わたし」という我があります。


我があるからわたしでいられるし

我があるから人と違います。


そしてこの我があるから

この世界にわたしだけの光を届けられ、

我はなくなったら皆同じになります。


誰かとの違いが現れるのがこの我です。




けれど、天職や使命を果たしたいと思うとき

この我を使いこなすのは私ではないと

理解しなければなりません。



笛や水路は道具であって

主体ではないのです。


笛は吹く者がいて音が出る、

水路は流すものがあって役目を果たします。


そこにただあるだけでは

役目を果たせないのです。




ならば吹くもの、流すものは何かといえば

それがこの世界の呼び方はいろいろですが

目に見えない力なり神様なり宇宙、

私でいえば大いなるものです。




あなたがとても優秀な包丁だとして

鍋や菜箸、ガスコンロや蓋

そしてそもそも材料がなければ

美味しい料理はつくれません。



包丁ができることは料理の一部です。

切るための「物」や使う「人」がなければ

ただの置物です。



けれど天職を探すとき 

私たちは自分だけで料理ができると思いがちです。

自分で見つけなければ

私が頑張らなければ

役立たなければ。




手に取ってもらうこと

そして道具として使いやすいと思ってもらうことが

天職や使命の道にのることです。



頑張ることではなく

自分のできる範囲で自分を知り

道具としての自分の光を磨くのです。


使いたいと流れが来たとき

すぐ役立てるように。



もしも役目が鍋の蓋だったとして

何かと比べて自分を低くすることも違います。


曲がった蓋は役割が果たしきれません。


ガラスの蓋ならいつも透明度を磨き、

中の具材を見えやすいようにしておきます。


蓋が材料を柔らかくし、味を染み込ませる。

とても大切な役割なんだと

私に誇りや自信、価値をしっかり

理解しているから力を発揮できます。




わたしには我がある。

それは"何の道具か"という個性です。


使う人はわたしではありません。

わたしがそこで我をはると

使う存在は扱いにくいのです。



この世界を光で包む

その一つの道具がわたしたちです。


わたしを知り、わたしに誇りをもち

わたしに執着せず、

美しく一番いい方法で使ってもらえますように。