義元さんの生い立ちと太原雪斎さんの教育。

そして、信長さんのガキ大将時代から織田家の嫡男としての成長ぶり、

尾張四群を手中に収め、桶狭間での奇襲へと連なって行く過程が描かれる。

 

 私が勉強したころは、義元さんは上洛の途中、桶狭間で討ち取られたと習った(?)

というか聞いた。しかし、その後、義元さんは知多半島を狙ったと、何かの本で読んだ。

 

 私も、”上洛途上での奇襲”には疑問を抱いていた。

 何故なら、大高城への兵糧搬入である。

兵糧というのはあくまで干戈(かんか)を交える前提の物である。

 知多半島を狙ったとはどういうことか。

信長さんの祖父が統括していた津島湊と知多半島を結ぶ水運。

 これは納得できる。

 

 しかし、私は戦争(侵攻)というのは、いかなる時代でも自国の経済的矛盾を対外的に解決しようとした結果であるという経済面から考えていた。

 

 私は静岡県民になって20年経ち、静岡県は山海の幸が豊富で美味しいものが沢山あるけれど、土地が少ないことに気が付いた。長野市の善光寺平で育った私からすれば、武田信玄が信濃侵攻した意味がよく分かる。

 お米ができる農作地を欲しがったのだ。そして、信玄は信濃を経由して越後の直江津の港から上がる収益、そしてその先の佐渡金山を目標にした。

 (信玄の駿河支配も、太平洋から日本海に繋がるルートの開拓である。)

 

 そう考えれば、土地が少ない駿河の国から見れば、濃尾平野の真っただ中にある尾張は垂涎(すいぜん)の地であろう。だから私は、今川さんは尾張の豊かな土地と津島湊の収益を欲しがったと思っていた。

 これをやすやすと奪われるわけにはいかない信長さんとの対決が桶狭間戦である。

 

 かつての津島湊跡や津島神社を旅行してよく分かった。

(下の写真は津島神社拝殿)

 そのように思っていても、研究者でもない単なる歴女の戦国時代の魔女の私では、持論を展開しても一笑に付されるだけ。

 

 宮下先生の『桶狭間戦記』は、そこを突いている。戦国時代は小氷河期であったという天候による飢饉があり、義元さんは豊かな土地を欲しがり、津島湊の商人や熱田神宮や津島神社をも手中にしようと侵攻を開始した。

経済面では、上記のとおりである。

 精神面では、朝廷から塗り輿を許されていた義元さんと、成長を始めたばかりの貨幣経済の中で育った信長さんとの権威VSおカネの対決。それが桶狭間戦であった。

 

 余談。その後の信長さんによる関所の廃止や楽市楽座の自由経済政策、大減税政策は記すまでもない。研究者によると、その経済効果は2500%の経済成長をもたらしたそうだ。現代日本の低経済を信長さんになんとかして欲しいと思う。

 

 巻末には詳しい歴史的背景や語句の意味が解説されていて、宮下先生はもとより、その資料‣史料を集めた編集者に敬意を表したい。