【台本】和田合戦女舞衣「市若初陣の段・切」文楽の床本 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫




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△令和6年5月東京公演チラシより











市若初陣の段・切



時を移す内

程なく一子市若丸、十一歳の初陣に着たる鎧は錦革、鍬形打つたる兜を着し、弓矢手挟み門前に大音上げ

「浅利与市が一子市若丸。公暁きんさとが首受け取らんと抜け駆けしたる証拠の一矢。これを戦の血祭り」

とよつ引きひようど門柱に三寸ばかり射込みしは、健気にもまたしほらしゝ

我が子と聞くより板額女はんがくじょ、門押し開き飛んで出で

「ヤレ市若をぢやつたか。待ち兼ねました、ほんにマアよう来たことちや」

と嬉しさもそゞろになれば

市若も

「母様、久しう逢はぬゆゑ、逢ひたかつた」

と取り縋る

「ヲヽ逢ひたい筈道理々々。自らも別れてより片時忘るゝこともなう、最前友達衆に尋ねたら、戦は嫌ひの逃げてのと悪口聞くになほのこと、いかう案じてゐました。まあ何として遅かつた」

「さればいの、脇々へは触れがありわしは父様がお下がりなされ、そちには公暁が首取る役、天晴れ手柄して来いとくれ〴〵の言ひ付け、わしにばつかり手柄さし、名を上げさして下され」

と身勝手言ふに

打ち頷き

「ヲヽよう言やった。そなたに手柄させいでマ誰にさそう。ムウさすが母が産んだ子、浅利殿の胤程ある。心なら武者振りならこんな凛々しい子があらうか。そしてマアこの鎧、誰が物好きで誰が着せた。兜を猪首に着せたのは父様であらうがの」

と押し廻しねぢ廻し

「コレ市若。なぜの忍びの緒結んでおきやらぬ。解けてあるが」

と気を付くれば

「イヤこれは母様に逢ふたらば、結んで貰へと父様の言ひ付け」

「ナニ自らに結んで貰へとか。ハア聞こえた。一旦武士の義理に迫り夫婦の縁は切つたれども、人知れず思ひ暮らす。折あらば忍べ、忍びの思ひ糸、結べ結ぶといふ心、デエ結んでやりませう」

と縁起祝ふてしつかりと結ぶ拍子に忍びの緒、ふつゝと切れて落ちたるは心ありげに見えにける

『ハツ』と思ひし母親より

市若なほも気にかけて

「申し母様。戦に立つて討死する者、忍びの緒を切るとある。わしや討死をするのかや。こゝへ死にゝ来たのか」

とおろ〳〵涙を

打ち消して

「ヲヽこな子はけうとい。そんな気にかゝること言はぬもの。高の知れた荏柄えがらが倅、ひねり殺せばとて苦のないこと。主を殺した者の子、遅かれ疾かれ遁れぬ命。尼君へ申し上げ、そなたに首を討たしてやらう。紐も母が付け直し丈夫にしてやりませう。こちへござれ」

と手を引いて門内さして入る海の、浪の哀れや打紐の、切れしを後の思ひとも、知らで親子は更み立ち伴ひ、一間に入りにける

子を捨つる数はあれども身を捨つる、藪はなしとの世のたとへ、身につまされて浅利与市、市若を討手とは深き所存も有明の、月も心もかき曇る、思ひの糸に引かされて門前近く来たりしが、跡先見廻し館を眺め

「あれが物見、これがお座敷。うちの首尾を窺ふは丁度このずんこの辺り」

と塀のかたへに身を寄せて、耳を澄まする折からに

尼君荏柄が妻子を引き連れ、表間近く出で給へば

『よき幸ひ』と板額女、一間を出でゝ手をつかへ

「実朝公より討手と申すは十一以下の子供の軍勢。これ考心の道を立て給ふ我が君のお心。それに敵対公暁をお渡しないはあんまり親御甲斐の我が儘。急ぎ首打ちお渡しあらば法も立ち道も立つ。双方のお心休め、私にお任せ下され」

と貰ひかけたる心根は子にさす手柄の種なりし

尼君御目に涙を浮かべ

「そなたの夫浅利与市。仔細何にも言はぬよの。一旦の口止めを用ゐ、連れ添ふ者にも語らぬとは、ヲヽ天晴れの待。かくなるからは何を隠さう、あの公暁は荏柄平太が倅とは偽り、誠は先将軍頼家の一子善哉丸」

「エそりやアノお妾腹てかけばらに出来たお子」

「ヲイノ自らが心のさもしさ聞いてたも。出家にするとて乳母諸共、鶴が岡の別当へ預けおきたれども実朝に子のないゆゑ、もしもの時は跡目にもと思ひついたがこの子の因果。人の謗りを憚りそなたの連れ合ひ与市と綱手の夫平太とを頼み、密かに奪ひ取つては貰ふたれども、別当の尋ねも厳しく当座凌ぎと荏柄に預け平太夫婦の子と云はして今の難儀。その訳言はゞ尼の身で出家落とした天罰と言はれんも恥づかしく、共に自害と覚悟する心の内の悲しさを推量しや」

としやくり上げ託ち給へば

綱手も共に

「我が子ならば何ゆゑにこれまで助けおきませう。疑ひ晴れて給はれ」

と言訳聞いて板額が胸はがつくり繰り返し

「アノ申しそんなら夫浅利与市、公暁は頼家のお胤といふこと」

「知つてみるとも〳〵。与市は手車売りとやらになり、平太は鳥売り、箱に入れて戻つてたもつた」

「ホイ、ハアハツ」

とばかりに板額は夫が懸けておこしたる忍びの糸の判じ物、解けて胸をば苦しめり

与市も表にうち萎れ

「さぞ女房が何かの事、思ひ合はさば胸迫り、我を恨みん不憫や」

と声を立てずの忍び泣き

公暁君はおとなしく

「我が命終はるは厭はねども、倶にとあるばゝ様のお命が助けたい。よきに頼む」

と一言が身にも応ゆるその上に

尼君近く立ち寄り給ひ

「人は五十を定命じょうみょうといふに六十むそじを越しながら、一人の孫を先立てば何存らへん夜明けまで最期の念仏それまでに、この子が助かる筋あらば尼が命は終はるとも助けてたも板額」とくれ〴〵重き重荷をば

『仰せ否』とも云ひかぬる

詞のうちに若君や、綱手引き連れしほ〳〵と、仏間を指して入り給ふ、御心根ぞ痛はしき

後に残りし板額が、涙の顔を振り上げて

「エヽ聞こえぬぞや我が夫。公暁を頼家のお胤といふ事知つてなら、なぜ打ち明けては下されぬ。可哀さうに市若を討手といふてすかし越し、忍びの緒を切りかけて母に結んで貫へとは、わしに斬れとの事なるか。お身代りといふ事を虫が知らしてその時に『母様わしは討死をするのかいの』と気に掛けし、今思へば神の告げ、告げとも知らずよその子の花々しきを見るにつけ『この市若はなぜ遅い。来さうなもの』と死ぬる子を、待ち兼ねたのは何事ぞ。殺しにおこすと知つたらば、待つまいものを」

としやくり上げ、嘆けば

夫は塀の外

「忠義ならずば何ゆゑに願ひ好んでおこさうぞ。父様手柄をして来うと、勇み進んで出た時の、俺が心を推量せよ。せめて今一度逢ひたさに忍んで来た」

と伸び上がり足爪立てゝも高塀に隔つ思ひはいとゞなほ、涙繰り出すばかりなり

市若かくと知らばこそ、一間をそろ〳〵忍び出で

「申し母様。よき左右あるかと最前から、待つてゐれども音もせず、友達衆が来ぬうちに、手柄をさして父様に褒めさして下され」

と殺すと知らぬあどなさを

見るに母親せきのぼす、涙を忠義に思ひかへ

「ハア成程〳〵未代に名を残す、大きな手柄させませう。イヤナウ市若。武士の子は何時知れず、もしやマアそなたが平太が子の公暁で、君より討手が来たりなば、どうせうと思やるぞ」

「ハテそれは知れたこと。主を殺した者の子と指差しに遭はふより、潔う腹切つてさすがは武士と言はるゝ気」

「何腹切つてか」

「アイ」

「アノ腹をや。腹を」

と言ふにしやくり出す、涙呑み込み、呑み込んで顔打ち眺め

「ヲヽそなたならさあらう。そのゆゝしい心から手柄がしたいは道理々々。さりながらその姿なりでは公晩が油断せず、鎧も脱ぎ常の姿。あの一間に隠れゐて、母が詞をかけたらば父の心に叶ふ手柄して見しややいの」

と鎧の紐解くも涙に結ぼゝれ死出の晴れ着の錦革、脱がせば下に白無垢を、着せて越したは『胴欲な、むごい夫』と恨みをば

来て泣く夫は塀の外

「我は忠義の男気もまさかの時は得討つまい。強い女ぢや討つさうな、殺すさうな」

と飛び上がり、見付の石に駆け上がり、塀に手を掛け『羽あらば飛んで入りたや顔見たや』と覚悟の上の覚悟にもこたへ兼ねたるばかりなり

板額涙の声隠し

「コレ市若。最前も言ふ如くあの一間に忍びゐて、たとへどのやうな事あつても呼び出す迄は出やんなや。手柄さして父様はおろか鎌倉中の侍に鑑と言はして褒めささう。母に任しや」

と押し入れて、立て切る一間を最期場と諦めかねし涙の袖、絞りながらに辺りなる燈火消して廻りしを

尼君、綱手は若君を後ろに囲ひ腰刀

「おのれ我が子を引き入れて、手柄さそとは心得ず」

と身を固めたる女の一図外には与市が内の音、静まつたるに不思議たて、耳そば立てし四方八方板額そろ〳〵暗がりを足音隠し表の方、板間を強くぐわた〳〵〳〵、人来る音に踏み鳴らしそつ〳〵と戻つて一間の側、さあらぬ体にて声に角立て

「誰ぢや。それに見えしは何者ぢや。何ぢや荏柄平太とや。シヤア正しく汝姫君の敵、逃さぬやらぬ」

と立ち上がり、何を目当てか詰めかくる

尼君、綱手は『誠か』と差し覗けども

人影のないとは知らぬ市若が一間の内に聞き耳の

外には与市が身拵へ、いづれも様子を窺へば

なほも詞を逆立てゝ

「何と云ふ平太。『この板額に密かに言ふことがある』ヲヽ言へ聞かう。サアどうぢや。ヤヽヽヤア何と言ふ『あの市若を取り返しに来た』イヤそりやならぬ。尤もそちが子なれども藁の上からわしが貰ひ、与市殿と二人して育て上げたらこちの者。今になつて戻せとはアレまだしつこい。コレ〳〵〳〵こなたは現在主殺し、その主殺しの子といふとのコレ市若は腹、腹を切らねばならぬわいの。最前も『公暁と打ち替はったらどうするぞ』と問ふたれば『潔う腹切つてさすがは武士と言はるゝ』と言ふたぞや。二人の親に褒められうと思ひ死ぬるは定。可哀さうに取り返さずとおいて下され。あれまだ一間を目掛ける気相。何『踏ん込んで取り返す』サア取り返して見よ。イヤどこヘイヤならぬ。どつこいさうは」

と一人して、二人の物音足音を

与市は女が手にかけて、討つに討たれず腹切らすはかりごとよと推しても尼君、綱手は不思議さに、心を配る

一間には不憫や市若うろ〳〵と

「さては我が身は主殺しの、荏柄平太が子なるとや。浅ましや悲しや」

と立つては泣きゐては泣き、詮方もなく座を占めて

「南無阿弥陀仏」

と差し添へを抜くより早く脇腹へぐつと刺せばぱつと散る、障子に映る血煙を見るより母は狂気の如く

「ヤレ腹切つたか出来でかした」

と駆け寄る音に

浅利も半乱

尼君、綱手も『こはいかに』と

若君燈火振り上げて、見れば

敢へなや市若が切なき息をほつとつき

「申し母様。今迄わしはほんの子と思ふてゐたがよう聞けば荏柄殿の子なる由。主を殺した者の子が助からうやうなしと潔う死にまする。『手柄もせずに死にをつた』と父様がお叱りならよう詫び言をして下され。たとへ荏柄の子であらうと、やっぱりお前や与市様を親と思ふてゐる程に、子ぢやと思ふて一遍の御回向頼み上げます」

と言ふに

母親張り裂く思ひ

「ヤレそなたをば父上が『手柄せよ』とて越されしは、公暁様は先将軍のお子。お身代りに立てよとの心を込めし忍びの緒。切るに切られず討ちかねて一人死んで貰ひたさ。何の荏柄の子であらうぞ。与市殿とわが仲の、ほんの〳〵〳〵ほん本の子ぢやわいなう。そなた一人が死ぬるとの、尼君様や若君様のお命の代り。手柄も手柄大きな手柄。コレ潔う死んでたも。何の因果で武士もののふの、子とは生まれて来たことぞ」

と口説き嘆けば

表には

「市若、父も来てゐるぞよ。臨終正念南無阿弥陀仏」

と唱ふる心

通じてや、今際いまはになつて目を開き

「そんなら荏柄の子でもなく、死ぬるも手柄になりますか。嬉しうござる母様。さらばでござる」

と敢へなくも息引き取れば

表も内も思はず『わつ』と泣き倒れ前後不覚の涙なり

かゝる哀れも我が夫の悪事ゆゑと綱手は覚悟、座を占め自害と見えければ

尼君やがて刃物もぎ取り

「汝誠の心あらば夫荏柄が行方を尋ね、姫が敵を討つて得させよ。市若への追善には我が愛着の心を放れ、再び公暁出家させ後世弔はせん」

と若君の御もとどりを押し切り給ひ

「綱手に従ひこの家を立ち退き、いかなる僧をも師と頼め」

と見放し給ふ若君は、成人の後公暁きんさとの、読みをそのまゝ声に変へ、公暁くぎょう法師と名乗りしはこの幼子の事なりし

夜もはや過ぎて明け方の、またも寄せ来る鯨波ときのこえ

板額是非なく涙ながら、死骸の首を打ち落とし、悲しさ隠し声張り上げ

「尼君匿ひ給ひたる荏柄が一子公暁が首討つてお渡し申す。受け取る人はお通り」

と大門開けば

浅利与市『こゝぞ』と涙押し払ひ

「ヲヽいしくも致されたか。すなはちこれに市若丸。受け取る役に控へたり」

と我が子の名をば名乗るも追善

尼君『不憫』と回向の唱名

供養は若君のりの旅、綱手諸共館をば出づるも思ひ見る思ひ

親と親とは式法に、我が子の首を受け取り渡し

「いかい御苦労」

「御苦労」

の声も涙に震ひ出し、『わつ』と泣けば『ハヽツ』と、礼儀に隠す涙の袖縋れば払ふ愛別離苦

会者えしゃ定離ぞ』と振り切つて是非なく〳〵も引き別れ御館みたちを、指して立ち帰る










豊竹とよたけ咲寿太夫さきじゅだゆう


人形浄瑠璃文楽ぶんらく
太夫たゆう
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽公演に主に出演。
モデルとしてブランドKUDENのグローバルアンバサダーをつとめる。

その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中




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