豊島屋油店の段
豊島屋、七左衛門とお吉夫婦の家では、店じまいをしたお吉が娘たちの髪の手入れをしていました。
櫛の歯が一本折れ、何か不吉だなと思っているところへ、夫の七左衛門が帰ってきました。
お吉は思ったより早く帰ってきた七左衛門を出迎え、店も閉めたし今日は早く休もうと言いました。
七左衛門はまだ廻らなければならない所があり、これから天満の池田町へ行くと返事をしました。
池田町までは少し距離があります。
今日はやめておいたら、と言いますが、七左衛門は今日中に済ましてしまうと言いました。
お吉は「そうしたらせめてひと口お酒でも」と言いました。
娘がお酒を持ってきます。
七左衛門はすぐ出るから、と立ってお酒をもらおうとしました。
娘も座っては手が届かず、立ち上がってお酒を注ぎました。
その様子をみたお吉は、立ち酒は野辺送り、つまり葬送の時の振る舞いで気持ちのいいものではない、気味悪いと注意しました。
七左衛門はあわてて腰掛けてくいっと一杯酒を煽ると、それが最後の別れとなるのも知らず出かけていったのでした。
娘たちは布団を敷き、寝る準備です。
お吉は子どもたちが寝つくと、七左衛門の帰りを待っていました。
さて、家を追い出された与兵衛。
油の樽を提げて、豊島屋の前にやってきました。
後ろから与兵衛を呼ぶ声がします。
与兵衛が振り返ると、金貸しの小兵衛でした。
与兵衛は二百匁の金を借りていて、今夜中に返さなければいけないのです。
しかも、その二百匁を借りるときに、父徳兵衛の名前を使っていました。
小兵衛は徳兵衛を気遣って与兵衛へ催促するため探して来たのでした。
与兵衛は朝になるまでには必ず持っていくと言い、小兵衛と別れました。
とは言え、与兵衛には一銭の当てもありません。
誰か落としでもしないかとぶつぶつ独り言を言っていると、後ろから小提灯の明かりが近づいてきました。
目を凝らすと、向こうから歩いてきたのは父徳兵衛でした。
与兵衛は慌てて豊島屋の壁に蜘蛛のように張り付いて、息を潜めました。
徳兵衛は与兵衛に気付かず、豊島屋に入っていきました。
徳兵衛は与兵衛のことを七左衛門に相談にやってきたのですが、あいにくの留守です。
お吉が娘たちのそばから出てきたのを見て、成人の与兵衛に世話を焼いている自分たちのことを思いました。
勘当してやけを起こし、詐欺でも企てないだろうか。
お吉に、この辺りにふらふらとやって来ることがあれば性根を入れ替えて帰るように言い含んでくれないだろうか、と言いました。
そして、懐から妻の目を盗んで持ち出したという金を取り出すと、与兵衛が来たら自分の名前を出さずに渡してやってくれと頼みました。
と、そこへ、妻のお沢が訪ねてきた声がしました。
徳兵衛は見つかったら気まずいと隠れようとしましたが、間に合わずにお沢に見られてしまいました。
外の壁に張り付いて中の様子を聞いていた与兵衛は、母までいったい何を言いにきたのかと耳をすましました。
お沢は徳兵衛が与兵衛のことを悔やみにきたことに気付いていました。
産みの親である自分が「出ていけ」と言ったのだから徳兵衛は気にしなくていいと言い、徳兵衛のそばに出ていた金を見て、これを与兵衛にやるのかと迫りました。
そんなことをするのは金を捨てるも同然のこと。そうやって甘やかすから悪くなっていく。たとえ着るものがなくなって、入水しようが焼身自殺しようが自業自得だ。
と言って、徳兵衛に家に戻るよう促しました。
徳兵衛はそれを振り放して、『生まれだちから親はない、子が年寄って親になる。子は親の慈悲で立ち、親は我が子の孝で立つ』と言いました。
帰るように言うのなら、一緒に帰ろうとお沢を立たせました。
その拍子にお沢の懐から何かがごとりと落ちました。
ちまきと徳兵衛よりも多くの金でした。
とっさにお沢は自分の身体でそれを隠しました。
徳兵衛にそうは言っていたものの、お沢も与兵衛が心配だったのです。
自分のお腹を痛めて産んだ与兵衛、どれほど悪い人間になってしまっても、愛情は捨てられません。
それでも継父の徳兵衛に可愛がってもらえるように、与兵衛に厳しく接していました。
自分に隠して与兵衛に金を渡すよう段取りをしていたことも、本当は有り難く思ったのです。
夫婦はふたりお互いに嘆いて涙を流しました。
お吉もその様子にもらい泣きで涙をこぼし、お沢の心情も痛いほど感じて、その金をここに「捨てて」置いていってください、私が誰か「よさそうな」人に拾わせましょう、と言いました。
徳兵衛夫婦はお吉の心配りにまた泣きだし、頭を下げてお願いすると、二人連れ立って帰っていきました。
全てを聞いていた与兵衛。
父母の後ろ姿が去っていくのを見て、豊島屋の門をくぐり七左衛門を尋ねるふりをして中へ入りました。
お吉は早速の与兵衛の姿に、良いところへ来たと招き入れました。
先ほどのちまきと金を誰からとは言わずに与兵衛に差し出しました。
与兵衛は驚く演技もせず、金を見て『親の恵みか』と呟きました。
お吉は取り繕おうとしましたが、与兵衛はあっさりとさっきの様子を聞いていたと白状しました。
知っているのなら話は別です。
これでしっかりと考え直して、いずれあなたが父母のために立派な葬式をあげられるよう努力をしないといけないと言いました。
今から心を入れ替えて真人間になり親孝行を尽くします、と与兵衛は相槌を打ちました。
親が残していった金を見て、けれど、とそのまま言葉を続けます。
その金では足りない、勘当が許されるまで二百匁貸してくれ、と言いました。
お吉はこれのどこが心を入れ替えるというのか、と呆れてしまいました。
夫が留守の時に貸すことはできない、早くこの金だけ持って帰りなさいと言いました。
与兵衛は諦めません。
貸してくれと執拗にじりじりと側へ寄ってきました。
女が相手だからとしつこく言うと、声をあげて喚くわよ、とお吉は与兵衛を止めようとしました。
与兵衛はここで何故二百匁が必要なのか正直に明かしました。
徳兵衛の名を使って二百匁を借りたこと、今夜中に返さなければ一貫目に値上がりしてしまうこと。
今の両親の嘆きを聞いては親に難儀をかけるわけにはいかない、不孝を塗り上げてしまう。
与兵衛は懐に忍ばせていた脇差をちらりとお吉に見せて、自害して死ぬほどの覚悟だ、と言いました。
お吉はじっと与兵衛を見ました。
もっともらしい話で、表情も真剣そのもの。
本当にそうなのか、と思いかけましたが、これまでの与兵衛の行動が仇となりました。
いやいや、これもいつもの手だ、ただ金が欲しいのだ、とお吉は思い直したのです。
貸せないと言ったら貸せない、と突っぱねました。
与兵衛の目からすっと光が消え、じゃあもう借りません、と言いました。
そうしたらこの樽に油を二升下さい、と与兵衛は持って来ていた油樽を手渡しました。
油店豊島屋のお吉、それは商売のうち、と樽を受け取ると売り場に降りて油を量りはじめました。
背中を見せたお吉の後ろに与兵衛はそっと寄りました。
その手は懐の脇差に添えられました。
音をたてず、刀を抜いて与兵衛はにじり寄ります。
お吉は油を量りながら、お吉は視界にきらりと光が跳ねるのを見ました。
びっくりしたお吉はばっと振り返ると、今のは何、と言いました。
与兵衛は脇差を背中に隠し、何でもありません、と嘯きました。
その目は据わっていて、お吉はぞっとし、その右手を出して見せてと言いました。
与兵衛は脇差を左手に持ち替えながら右手を出して見せて、何もないと近づきます。
お吉は後退りしました。
何をきょろきょろと恐ろしい、と尋ねながら与兵衛はお吉に迫っていきました。
そして次の瞬間、与兵衛はお吉に飛びかかると脇差をぐっと突き立てました。
声をあげるな、女め。
刺されたお吉は手足をもがいて悩乱します。
今死んだら三人の子供たちをさまよわせてしまう、死にたくない、金は要るだけ持っていって。
与兵衛は脱力して、諦めて死んでくれ、と引き寄せると右手から左手にかけて腹を刺しました。
お吉は必死に逃げ惑います。
冥途からの夜風が門の幡をはためかせました。
風にあおられて、売り場の灯りが消えました。
暗闇の中、お吉は油を打ち撒いて与兵衛から離れようとします。
油と血がまじり、与兵衛の足をすくいました。
にぶい音をたてて滑り、与兵衛はひっくり返りました。
すぐさま体勢を立て直すと、滑らないように刀を床に差しながらお吉目掛けて這い進んでいきます。
血汐にぬれて、その姿はまるで赤鬼でした。
鬼の角かのような刀を振り上げ、与兵衛は容赦なくお吉を裂きました。
地獄の苦しみがお吉を襲います。
やがてお吉は息絶えました。
日頃の気強い顔を知っているがゆえに、魂が抜けた顔をみて、与兵衛は我に返りました。
ぞっとして、膝ががたがたと震え、呼吸は速くなり、胸は激しく上下します。
与兵衛はお吉が提げていた鍵を取って、売上金が入っている戸棚を目指しました。
蚊帳の内には子どもたちが寝ている顔が見えました。
その顔は自分を睨んでいるようで、与兵衛の身体は激しく震えました。
戸棚の鍵を開けようとしたところに、外で雷が落ちる大きな音。
肝がひっくりかえるような恐怖を感じながらも与兵衛は戸棚を開けました。
そこにあった売上金、五百八十匁を懐に捻じ込むと、ずっしりと重くなったのは懐だけではなく足から身体全てのような感覚がしました。
凶器の脇差は栴檀の木の橋から川へ投げ捨てようと回らない頭の中でそう考えました。
そして与兵衛は豊島屋を出ると、薄い氷の上を歩いているのか、炎の上を歩いているかのような心持ちで足にまかせて逃げていきました。
とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。
その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中
豊竹咲寿太夫
オフィシャルサイト
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