【10分あらすじ】良弁杉由来「東大寺」世界遺産で起こった奇跡の再会。良弁僧正の伝説と二月堂。 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

 良弁杉由来









奈良にある世界遺産の東大寺、有名なお寺ですよね。


その東大寺は奈良時代に建てられました。あの奈良の大仏が本尊です。



そんな東大寺で寺務を総裁したお坊さんを別当といいます。つまりいちばん偉い人ですね。

良弁は東大寺の初代の別当なのです。













良弁の生まれについて諸説ありますが、この「良弁杉由来」という芝居では近江国の志賀で生まれ育った筋立てではじまります。







 志賀の里



官家(つまり朝廷)で仕えている水無瀬左近は亡くなっていて、水無瀬左近の妻の渚の方30歳になるならずでもう未亡人でした。

彼女はまだ二歳の息子の光丸と女中たちと暮らしていました。






さて時折、山や河で小さな子の行方不明のニュースが報道されますが、もし子どもが行方不明になってしまったら、自分だったら心身ともに狂ってしまうだろうなと思います。


ある天気のいい日、渚の方は光丸と女中たちと外へ出かけていました。

と、突然山おろしが襲いました。

とてつもない風が吹き荒んだかと思うと、そこへ大きな山鷲が飛来したのです。


山鷲は一行を狙って飛び掛かると、光丸を掴んで空へ引き離してしまいました。

あっという間の出来事でした。

渚の方と女中たちはその後を追いかけましたが、山鷲には追いつきません。



渚の方は泣き喚き、山鷲が消えた方へ一心不乱に歩いて行ったのでした。












 桜の宮物狂い




我が子を失ったショックに渚の方は気が動転、周りも見えなくなるほど狂ったようになってしまいました。


それからというもの、彼女はとにかく我が子を見つけるために方々をさまよい歩いていました。

水無瀬左近の奥方だったころの姿は影もなく、髪は乱れ、ほつれた着物や擦り切れた履き物に通り過ぎる子供達からも容赦のない言葉を浴びせかけられるような状態でした。






ようやく気持ちに区切りがついて我に返ったのは、光丸が行方不明になってから実に三十年あまりが経ったころでした。


志賀の里に戻って、きちんと我が子を弔おうと決心し、帰路につこうと渚の方は船に乗りました。

すると、乗り合わせた人たちが興味深い話をしていました。

奈良の東大寺の良弁という僧正は、幼い時に大鷲にさらわれて無事に助かり、それから仏門に入ったというのです。


その話を聞き「まさか」と渚の方は船を降りると志賀の里から東大寺へと道筋を変えたのでした。

















 東大寺



何十年もさ迷い歩き、渚の方は身なりもぼろぼろ、官家の旧臣の妻にはまるで見えません。


東大寺まで思いのままに来たのはいいものの、自分の見るも耐えない姿に渚の方は気後れをしてしまいました。



近くを通りかかった若い僧に渚の方は声をかけました。

しかし物貰いと思われ、取り合ってもらえません。

それでも渚の方は自分と光丸の身の上を根気強く話しました。


僧はまだ不審に思っていましたが、それでも嘆きを訴える渚の方を放ってはおけませんでした。


良弁僧正は東大寺で最も位の高い人です。

この若い僧ですら簡単に会えるような人ではありません。

それでも渚の方の身の上を良弁僧正の耳に入れる手はないかと考えました。


良弁僧正は自分が幼い時に助けられた杉に毎日参詣をしていました。

その杉の木に今の身の上話を書いた紙を置いておけば目に留まるのではないかと思いつきました。

そして若い僧は自分の携帯用の筆を取り出すと、紙に身の上話を書き、渚の方に渡しました。


渚の方はその紙を受け取り、東大寺の中にある二月堂へと向かいました。












 二月堂



この日も良弁は二月堂の杉の木へ訪れました。

幼い自分が鷲にさらわれ、この杉の木に連れてこられたところを師の僧正に助けられたのでした。

生き別れた親のことが心に残り、息災延命を祈っていたのでした。


と杉の木の元に紙があることに気がつきました。

紙を見、良弁はこの紙を置いたのは誰か探すように命じました。



近習はこの辺りに人影はなく、ただぼろぼろの身なりの老女だけがいることを報告しました。

渚の方でした。

良弁は渚の方を呼び寄せるよう命じました。


良弁は渚の方にこの紙を置いた者を見かけなかったかと尋ねました。



渚の方は自分がその紙を置いたこと、そうすれば良弁の目に止まるかもしれないと思ったこと、そしてその紙の文言は自身の身の上であることを述べました。




良弁は自分の身の上と似通った中身に、あなたは何者かと問いました。




渚の方は自分が官家の旧臣水無瀬左近の妻であること、志賀の里に移ってから子どもを授かり夫が亡くなったこと、子どもが鷲にさらわれたこと、三十年ものあいだその子を探し歩いていたことを涙ながらに伝えました。




良弁も自分の身の上を思い返し、自分の親もこのような気持ちなのだろうかと涙を流しました。

その子どもに何か目印になるようなものは持たせていなかったのかと良弁が尋ねると、渚の方は三十年の年月に記憶もだんだんと薄れて思い出せないと言いました。


ふと渚の方はあることを思い出しました。

光丸にはお守りを持たせていて、その尊像は水無瀬家に伝わる一寸八分の如意輪観音だったのです。






良弁はそれを聞き、持ち歩いていた錦の守り袋をおもむろに取り出しました。

もしかしてこれではないか、と渚の方に見せました。

間違いありませんでした。

そのお守りこそ、水無瀬左近が手縫いで作ったお守り、親子の絆のお守りでした。




ふたりは顔を見合わし、溢れ出る涙を押し留められず、手に手を取り合いました。






良弁は母の境遇を反芻し、母が野宿や物貰いをしてまで自分を探している間、自分は僧正だの聖だのとかしずかれ、大層立派な輿や緋の衣、錦の袈裟を纏い、これのどこが大寺の権化の僧かと両手を土につけました。


これほどの母の慈悲に触れ、良弁は自分たちを引き合わせてくれたお守りの如意輪観音を尊像とした寺を、故郷だと知った志賀の里に作ることを決心しました。

その寺を石山寺と名付けよう、と。


三千年に一度咲く花のように奇跡的な親子の再会、東大寺には子安神社と呼ばれる社があり、ここはかつて良弁が母をここに迎えて孝養を尽くした場所として今でも残り、二人が再会した杉は良弁杉として伝えられています。









 

 

 

 



とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
 太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。


その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
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豊竹咲寿太夫
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