御成敗式目ってなに?いつの法律?どんな法律?簡単に解説! | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫


 御成敗式目











 

時代 : 鎌倉時代



源頼朝によって成立した鎌倉幕府。


鎌倉幕府は基本的に日本の東側で勢力を持っていました。




頼朝の死去後


三代で将軍は源氏ではなくなり


西側の朝廷が中心となって起こった戦争「承久の乱」で幕府が勝利したことによって、幕府は西側の武士たちに対する権力も持ったのです。



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全国に広がった武士たちをまとめる法律が必要になってきたんやな




武士による裁判のための、つまり成敗のための法令をまとめた式目。


 

その法律が「御成敗式目」なのです





POINT


 

1232に制定された武士の法律
「御成敗式目」














  なぜ作られたのか



朝廷側は承久の乱で敗北はしたものの、朝廷という仕組みが無くなったわけではないので、公家や貴族は従来の公家の法律を使っていました。


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御成敗式目は武士の法律やもんね



ただ、御成敗式目で裁いてほしいという要望があれば武士ではない公家や寺社関係の人たちも使うことができる、公正に作られた法律でした。





承久の乱1221年に起こり、御成敗式目が制定されたのは1232年。




この頃には将軍は源氏ではなく、幕府の実権は源氏と関わりが深かった北条氏が握っていました。


執権という将軍の補佐と政治を任された最高職に就き続けたのが北条の家の人たちでした。



承久の乱を制圧した2代執権の北条義時は3年後に死去し、息子北条泰時3代執権に就きました。

 

ちなみに源頼朝の妻の北条政子は泰時の伯母です



北条政子はこの頃もまだ存命でした。



このころの法律は中国の法を参考にした律令をもとにした法体制が取られていました。





しかし武士たちは▼

漢字が読めないから意味ないねん!





この公家法は漢字が読めない地方の武士や人々にとっては意味のないようなものでした。





承久の乱の後、地方の武士の紛争をおさめるために源氏の将軍時代の先例前例を参考にしていました。


 

それでは裁ききれない事例も多くなってきたのです!






そのため北条泰時は武士のための法律を作る必要性にかられました。



そうして作られた武士の社会の初めての法律。



それが御成敗式目!




それまで主に武力によって統治をしてきた武家社会でしたが、この御成敗式目という法律によって、ようやく「政権」として武家社会がまとまったといえます。













 





 

 

 

 



とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
 太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。


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豊竹咲寿太夫
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