北新地はどうして「北」新地なの?②【大阪土地歩き】 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫

北新地はどうして「北」新地なの?




大阪、大阪駅から少し南へ行くと、そこは浄瑠璃の芝居の舞台になった場所がぎゅっとかたまって存在します。


世話物では江戸時代中期から後期にかけての町人や商人の実際にあった事件などを題材に物語が作られました。


ですので、かなり詳細で具体的な土地の説明や、生活スタイルなどが記されています。








①はこちら




この中之島では諸藩の武士が蔵屋敷にいて、堂島では当時の日本の要である米相場を、そしてそのエリアから南へ商人たちの町が広がっていました。


そもそもこの辺りというのは、豊臣秀吉が大阪城を築き、城下町として区画整理をしたことで出来上がった町並みです。


江戸時代の中期ころにかけて航路改良や治水工事があり、淀川の舟の便が開けました。

そして諸国から米や特産が集まってきました。

天下の七割がここを通過したと言われています。





そうしてそれら旦那衆や各藩の武士たちを客層にとらえて、中之島や船場の近くに遊廓がありました。



日本の三大廓というと、


・江戸の吉原


・京の島原


そして


・大坂の新町



と言われます。




遊女の最高位の人たちがいたのはこの三箇所。


官許の廓でした。




新町はこの辺り



冥途の飛脚の遊女梅川はこの新町にいます。



この地も「新」の字がつきます。


これは官許として廓を設立する際に、市中に散財していた傾城町を集めて一つにしたためです。

新町がまとまったのは1624年から1644年の寛永年間のあたり。


つまり、北新地よりも前からありました。




大阪の中心だった堂島・中之島・船場、三大廓の一つ新町、そしてそれらの北側に新しく設立された遊里の地「北の新地」。




知ってみると、流れがあって興味深いものです。











とよたけ・さきじゅだゆう
:人形浄瑠璃文楽
ぶんらく
 太夫

国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
ぶんらく
公演に主に出演。


その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
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