令和元年文楽九月公演国立劇場サイトより引用
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酒屋の段・下
あとに残されたお園はひとり憂き想いであった。この世は味気ない。このように辛い想いをしなければいけないものなのだろうか。半七とのすれ違いは結局どうにもならないまま、この家にはわたしだけがいる。
「ああ、今頃は半七さん、どこにどうしてござろうぞ」
お園は呟いた。
部屋に誰もいないからか、華奢なその身から言葉が溢れて出てくる。
「わたしより先にお通という子が三勝さんとの間にいるのだもの、わたしさえいなければ半七さんの勘当もなかったでしょうに。
去年の秋に病気をした時に、わたしなんて死んでしまえばよかったのかもしれないわ。
あなたに気に入ってもらえないと頭で分かってはいながら、やっぱり愛してしまっている未練なわたしのせいね。
一緒に寝ることすら叶わずに、それでもお傍にいたいと長い間辛抱したのが仇となってしまった」
お園は泣けてくるのをぐっと堪えた。恨みつらみはない。半七をそれでも想っている。それがお園だった。
「明日はきっと早くに天満の実家へまた帰るはず。そんなところへ半七さんの儚い行く末が耳に入ったとしたら、わたしはもう生きていけない。
生きていくつもりもない。
それならば、嫌われていても夫であるあいだに、この家で死んでしまえば来世で一緒になれるかしら」
我慢はしていたが、ひとりきりであったのも手伝って、お園は涙を流していた。
その泣き声に目を覚ましたのは、先ほど丁稚の長太が連れ帰ってきた小さな子どもだった。
眠っていたひと間を抜け出してきて、泣き声のありかを探してお園を見つけた。
そして、お園の膝に寄り添って
「乳がのみたい。乳がほしい」
と彼女を見上げた。
お園は当惑して、その子どもを見た。
顔を見て、彼女ははっとした。
「お通やないの! どうしてこの家に?」
半七と三勝の子、お通自身もわけが分かっておらず、お園にすがりつくばかりだった。
その声を聞いて、奥から半兵衛夫婦と宗岸があたふたと出てきた。
「園、その子のことをお通と言ったか。ということは半七と三勝の」
半兵衛が子どもを覗き込んだ。
お園は頷いた。
親三人は驚きと当惑に顔を見合わせた。
「お通をどうして捨て子なんてことにしたんや・・・。ああ、訳があるんやろう・・・。懐かどこかに手紙など忍ばせてはおらんか」
半兵衛の言葉に、女房はお通の懐を探った。
そこには守袋が入っていた。
これか、とばかりに中を開ける。
すると一通の手紙がはらりと落ちてきた。
半兵衛女房は手紙を即座に取り上げると、封を破った。
「か、書き置きや」
「なんやて! 園や、読んでくれへんか」
お園は手渡された書き置きを読み始めた。
「『親子の縁は深いもの。父の教えは山よりも高いとの世の教えです』」
隣の稽古屋から三味線の音が聞こえてきた。
「『母のご養育は海よりも深い恵み。おふたりの幾千万のお心使いも泡と消えいくわたしの難儀。人を殺した身となり、お別れ申し上げる次第でございます』
ああ、半七さん」
お園は思わず書き置きから目を離した。
半兵衛は歯を噛み締めた。
「半七はあの善右衛門を殺したか。ええい、あの善右衛門という男は相当な悪い男や。なにかあったに違いないのに、半七は捕らえられることになる。そう思えば、そう思えばおれは、おれは悔しい」
女房がお園から書き置きをそっと取り、続きを読み上げ始めた。
「『人を殺したからには一日たりと生きながらえることはあり得ませんが、お通というひとりの娘がございます。身体が弱く、それに心がひかれて今まで逃げ延びてまいりましたが、所詮は助からない身。お通だけはお助けいただきたく、そちらに遣わせます。この子を・・・この、子を』」
涙にむせる女房に「ど、ど、どどれ、見せい、見せい」と半兵衛が書き置きを横から取り、続きを読み上げた。
「『この子をわたしが小さくなったと思ってそばに置いてやってくださりませ。子を持って、はじめて親の恩を思い知りました。心懸りなのは父の勘当のことです。わたしが死にましたら、お許しくださいますよう、母さま、お取り継ぎをよろしくお願い申し上げます』
ああ、ああ、ああ、道理や、道理や、道理や」
半兵衛も泣き崩れ、再びお園が書き置きをその手からそっと取りあげた。
「『お園』」
そこから、お園への文面となっていた。
「『お園、ついに愛想らしい言葉をかけることもできず、夜を共にすることもなく、それでも夫大事、親大事と辛抱に辛抱を重ねたこと、なによりうれしく思っている。今までのすげない態度は決してお園が嫌いだというわけではなく、三勝とはそなたが家に来るよりも前からの仲で、子まである状況で、退っ引きならなくなってしまった。あまりに他人行儀になりすぎた。
夫婦は二世ということもある。来世は必ず、夫婦となりたい』」
宗岸はそれを聞き「ああ、未来も未来やが、この世で夫婦にしてやりたかった」と嘆いた。
「初孫の顔を見たいと思ってはいたが、こういうことになると知っていたら、顔を見ないほうがましだったろうと思ってしまう」
と半兵衛も嘆き、お通を抱き上げた。
「ああ、なんにも知らずにこの子は無邪気な」
半兵衛の手の中でお通は手を打ち鳴らして無邪気に遊んでいた。
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家族の嘆く家の外で聞き耳を立てている者がいた。
半七と三勝である。
内から「今夜からはこのばばと一緒に寝ようね。ああ、とは言っても、乳もない。かわいそうな、かわいそうなこと・・・」と声が漏れて聞こえた。
聞いた三勝はわが胸をおさえ、
「ああ、乳はここにあるものを、飲ませてやりたい。顔が見たい」
と悲痛に顔を歪ませた。
半七は歯を食いしめた。
「こんなに深いお情けをかけ、勿体無い・・・。不幸をゆるしてくだされ。
早く父の縄を解かなければ。
さあ、死にに行こう」
三勝は伸び上がり、家を覗きこんだ。
「お通を一目・・・」
そしてふたりは家のほうへ手を合わせると、伏し拝んで「さようなら」と呟き死の道へ歩みはじめた。
「この文体では、半七は今夜が最期と決めたのではないか」
半兵衛がはっと気付いた。
「行方を探そう」
宗岸もあわてて立ち上がり、身繕いを始めた。
「やあやあ、各々方、善右衛門殺害の科人召し取ったり」
そこへ大きな声とともに、侍がずんと入ってきた。傍らにはひとりの男が縄で捕らえられていた。
思いがけない来訪に、一同は戸惑いを見せた。
「半七が殺害したという善右衛門は、国元から公用金を盗み出した盗賊であった」
言い、侍は捕らえた男をぐいとみなに見せた。
半七ではなかった。
「この善右衛門を捕らえにきたところ、一昨夜半七にて討ち取られたとのこと。
善右衛門の仲間のこの男を捕らえ、全て白状させた。
半七親子に科はない」
侍は立ち寄って、善右衛門の縄を解いた。
「お侍さま、半七が死ににでました。どうか止めてくだされ」
母が侍にすがった。
侍はむんと黙った。
実はこの侍、過去に半七と三勝の仲を助けていたことがある。
しかしその際にふたりが一緒にならないよう厳しく言い聞かせた過去があった。
「半七は死にに出たか・・・。
むう。
半七は過去のわたしとの約束を反故にしてしまっている。すまんが、わたしができるのはここまでだ。あとは道理に反してしまう。
すまぬ。
はやくふたりを探しにでよ。
夜明けぬ内に、さあ、はやく!」
侍は縄をくくった罪人を引き立て、張り詰める心をおさえ、半兵衛夫婦と宗岸親娘と別れた。
大和、奈良は五条の茜染め。
その染めものは女性を艶やかに美しく魅せたという。
女舞い芸人の三勝と茜屋の半七の物語。
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