https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2019/9128.html
国立劇場令和元年九月公演チラシより引用
10分で分かる心中天網島
10分で分かる「心中天網島」その1・上
10分で分かる「心中天網島」その1・下
10分で分かる「心中天網島」その2・上
10分で分かる「心中天網島」その2・下
10分で分かる「心中天網島」その3・上
その3
「大和屋の段より名残の橋尽くし」下
釈迦が因果応報の理を解いた経がある。
因果経。
明日は町中の噂の種となってりことだろうな、と治兵衛はふいと思った。
「紙屋治兵衛の心中」
そんな浮き名が桜のように散るのだ。
その桜の木の根を、根掘り葉掘り書き散らした瓦版も出ることだろう。
これもまた、商売一徹に生きなかった、自分への報いなのかもしれない、とそう思った。

道は十五夜に明るく照らされていた。
だが、ふたりの行く道の先には光など見えない。
夜の霜は明日の朝に消えるとは、儚いものの例えであるが、自分たちはその霜よりも先に消え行こうとしているのだ。
あの甘い夜を過ごした事実がいったい何になるだろう。
小春のあの匂いも、今は流れていく。
蜆川の流れのように。
ふたりは蜆川を西に見て、天神橋へ。
天神橋といえば、太宰府に「流された」菅原道真ゆかりの橋。
菅原道真といえばゆかりの深い梅、松、桜。
ふたりは、水の都大坂の夜を歩いていく。
梅田橋を飛ぶように越え、老松町の緑橋。
風がふたりの間を抜けた。
後に寒く木枯れる、桜橋。
「梅は飛び、桜は枯るゝ世の中に、何とて松のつれなかるらん」
治兵衛は呟いた。
蜆橋を越えた。
「しじみ貝で海を測るとは、よく言ったもんや。
結局は成し遂げることなどできなかった。
もうこの世に住むのも飽きた」
秋の寂しい空気がふたりを包んでいた。
「爺さんと婆さんになるまで添いとげようなどと言っておきながら、おれたちはまだ出会って三年なんやな。
おまえは十九、おれは二十八」
蜆川の筋、堂島川の入り口付近までやってきた。
大江橋を渡った。
そして堂島川の端の橋、難波橋。
そこから舟入橋。
川岸沿いに歩いていく。
歩けば歩くほど、冥途の橋へ向かっているのだと、嘆かずにはいられなかった。
涙が溢れる。
その涙に堀川の橋も水に浸かってしまうようだった。
北へ歩けば、自分の家が見える、我が子を見ることができる、おさんを見ることができる。
しかし治兵衛は我が子の未来も、おさんの哀れも胸の底へ沈めて、南へ歩を向けた。
天満橋の方へ向かって歩いていた。
このあたりの川岸は八軒屋という。
とくに数に決まりがあるわけではないが、誰が名付けたのか、そういうのだ。
そうして京都の伏見に通う船の発着場を通る。
船が着かないうちに、と足早に通りすぎた。
天満橋。
今のふたりにその響きは天魔と聞こえる。
恐ろしいひびきだった。
淀川と大和川が合流する大川。
水魚の交わりというが、皮肉な道のりである。
ふたりの目の先にあるのは淀川でも大和川でも大川でもない。
一つの刃で向かう、三途の川である。
京橋を渡り、御成橋へ。
小春は思った。
仏や菩薩を思いのままにできるのならば、遊女たちが心中をしなくてもよいように守りたい、と。
そんな願いでさえ、この世に執着心があるからだ、とまた哀れになった。
山の輪郭線が白みはじめた。
寺の鐘が遠くで響いた。
「こうしていても仕方がないな」
治兵衛は小春を連れて、網島の大長寺の藪の外に着いたのだった。
「どこが決まった死に場所というわけでもない。
ここにしよう」
小春の手を取り、治兵衛は腰を下ろした。
「死に場所はどこでも同じ。
それでも、わたしと治兵衛さまがふたり並んで死んで噂がたってしまうのは、おさん様の手紙を無駄にして義理知らずになってしまう。
わたしへの軽蔑はどうでもいいの。
でも、おさん様に軽蔑の目が向くのが辛い。
治兵衛さま、わたしをここで殺して、あなたは」
「ああ、つまらないことを言うな。
おさんは舅に無理矢理に離縁させられたんや。
もう、他人、なんや。
おれとおまえが並んで死んでも誰も罵らん」
「治兵衛さま、あなたのほうがつまらないことをおっしゃっているわ。
離れ離れで死んだとしても、解き放たれたふたりの魂は地獄へでも極楽へでも」
治兵衛は小春の訴えに「わかった」と頷いた。
そして脇差を抜き、自分の髷を切った。
「小春、これで、おれは出家したも同然や。
現世を離れ妻子も金も宝も持たない法師と同じ。
もうこれで、おまえが背負うおさんへの義理もない」
小春ははらりと涙を流し、自身も美しく整えていた後ろの髪を切り捨てた。
「これでおれとおまえは、法師と尼。
もう、俗世の義理は昔のことや。
死に場所は言う通り変えよう。
山と川の両極端の死に方にしよう」
大長寺の外の水門の上を山と見立て、そうしてその流れの下を川と見立てるのだ。
「山でおまえが、川でおれが」
死に方も、死ぬ時もいっしょになるが、こうして二人はおさんへの義理を立てることを決めたのだった。
治兵衛は小春の腰帯を受け取り、水門の上に渡した横木にしっかりとくくりつけた。
その腰帯の先は輪にして結んだ。
「あなたに刃で突かれて死ぬのはひと思い。
あれで命を断つのは苦しいわ」
「首をくくるのも、喉を搔き切るのも、死ぬことに違いはないじゃないか。
そんなことに気を取られず、西方の極楽浄土へ向かうことを忘れるなよ」
烏がねぐらを離れて、にわかに騒ぎ始めた。
死の匂いを嗅ぎ取ったのであろうか。
それともふたりの哀れを嗅ぎ取ったのであろうか。
ふたりは寄り添った。
冷たい風が吹きすさび、涙を凍らせてしまうようだった。
大長寺の鐘の音が響いた。
「夜が明けない内に、さあ」
治兵衛は小春を抱き寄せた。
「死に顔に泣き顔を残すんやないぞ」
「ええ」
小春はにっこりと微笑んだ。
治兵衛は刀を小春の喉元につけた。
寒さに手が凍え、震えていた。
涙で目がくらんで、刺すべきところが分からない。
「治兵衛さま、慌てずに。さあ」
小春はすうっと覚悟を決めた。
それを合図に治兵衛も心を決め、ひと思いに刃を刺した。
迷いがあったのだろうか。
切っ先は喉笛を外れ、小春は死に切れず、苦しみにもがいた。
「いま、楽にしてやる、いま楽に」
治兵衛は掻き乱れる心を押さえつけて、もういちど刀を添えた。
小春を引き寄せて、今度は鍔元まで深く深く刺し通した。
抉り通した苦しみも長くは続かなかった。
明け方の浅い夢のように、儚く小春の命は消え果てた。
治兵衛は小春に羽織を優しく被せた。
涙が堰を切って溢れた。
泣いたところで、さまざまの名残りが尽きるわけでもない。
治兵衛は小春の腰帯を引き寄せ、自分の首へ掛けた。
備前島の東、淀川の土手には漁家が軒を連ねていた。
商売道具の網は毎日軒に干していたので、その様子からこのあたりは網島と呼ばれていた。
その網島で朝早く仕事に出た漁師が、首を吊った男性の遺体と、傍に羽織に覆われた女性の遺体を見つけた。
それは、十月の十五夜が明けた日であった。
- 了 -
*
https://www.ntj.jac.go.jp/sp/
日本芸術文化振興会サイト

https://www.ntj.jac.go.jp/sp/bunraku.html
国立文楽劇場

https://www.ntj.jac.go.jp/kokuritsu.html
国立劇場