
仙台市八幡町のサンデーカメラマン・サカズキです。4月末の休日、午後に少しばかり時間ができたので、思い立ったことをやってみよう!と、カメラを片手に歩いて行った先は…。

澱橋。仙台市青葉区の八幡・角五郎・広瀬町地区と川内地区を結んでいる広瀬川に架かる橋です。
現在の橋は、昭和三十六年(1961年)に架けられたものですが、当地に初めて橋が架けられたのは元禄八年(1695年)頃といいます。少し下流に位置した支倉橋が前年大水で流失してしまったことで、代わりに架けられた橋が澱橋。それ以降の江戸時代、仙台城から広瀬川を渡り城下町へと出るための道筋として、大橋、仲の瀬橋、澱橋の三つの橋が要となりました。過去には「淀橋」と書かれることもあったようですが、最初に架橋された時に藩から「澱橋」と命名されていたようです。
澱という名前は、橋の架けられた場所である広瀬川の「澱瀬」から来ていると考えられます。「橋」と「瀬」のどちらが先に「澱」の名を冠したか私には分かりませんが、広瀬川中流域を上流側から辿ってみれば、確かに最初に川の流れが澱むような場所に位置しています。また、澱橋が生まれる約30年ほど前に完成していた、蟹子沢(へくり沢)を渡る「土橋」の道筋も澱橋誕生に寄与した存在なのかもしれません。
澱橋が誕生したことにより新しい道筋も生まれました。橋の袂から広瀬川沿いを知事公館前へと上がる坂道は「新坂」と呼ばれ、そこから北へと延びる道筋が「新坂通」となり、今は東北大学病院で隔てられた道筋の橋から離れた場所ながら「新坂町」という地名に澱橋の誕生にも由来する名残りを留めています。
さて、そんな澱橋や周辺はというと、私的には仕事帰りの道であったり、歩いて街の中心部へ出るときのコースだったり、散策でブラブラする地域だったり。それと…。

仙台七夕花火祭を鑑賞する場所だったりします。(上画像は2014年撮影)
澱橋周辺の主要見所スポットは、宮城県美術館、宮城県知事公館、八幡杜の館(中島丁公園)が最寄で、その周辺に仙台城址、亀岡八幡宮、西公園、龍寶寺、大崎八幡宮、子平町や柏木地区の寺院、牛越橋付近まで足を延ばせば三居沢発電所や三居沢不動尊等、徒歩圏内にいくつもの見所を抱えていると言えるでしょう。
私を始め、今でも橋は地域住民の主要な道筋であったり、河川敷は暮らしの中で過ごすひと時に豊かさを与えてくれるような貴重な場所でもあったりしますが、そういう点では澱橋や付近の広瀬川そのものが主要スポットの一つでしょう。
そんな場所にあらためて足を運んだのは、現在の橋の先代「旧橋」の姿を追ってみようと思ったから。
まずは、現代の橋を渡りながら旧橋を見てみましょう。

川内方面(南)から八幡方面(北)へと橋を渡る際に、橋の袂の左側に旧橋の名残があります。

旧橋の高欄親柱と控柱が、こんもりとした場所の上に残されています。
橋を渡りながら左側の川面を覗き込めば…。

旧橋の橋脚が根元のみを残して存在しています。延長線上を目線で辿って行けば、対岸の道路脇には橋台の下半分も残っています。(現代の橋の欄干はそれほど高くないので、身長のある方や脚が長い方=腰の位置が高い方は身を乗り出し過ぎると危険です。ご注意を。)
旧橋は橋脚が4本だったはずなので、残り2本は河川敷に埋没しているのでしょうか。

振り向けば、川内方面側の橋台をよく観察できます。こちらはほぼ完全な状態で残っています。レンガ造りである以外に高欄親柱等の存在や、大砲のような突き出た鉄管の存在も気になりますが、私的には橋台の縁を補強している花崗岩の存在が気になったりしています。古いレンガ造りの建造物では付き物のような補強石の存在です。

八幡・角五郎方面側の橋脚を上から。

八幡・角五郎方面の橋台は、上半分が取り去られています。
今は丁字路となっているこの場所、旧橋が現役だった頃には左右への道の接続がどうなっていたのか気になります。詳しい写真とか残ってないのかな…。

ということで「橋の高さ目線」からの観察はこのくらいに。
次は、「川から目線」で。

旧橋の真下に降りて見ます。

旧橋の橋脚付近には、その橋脚の残骸が散らばっています。レンガ片や花崗岩の石材です。

八幡方面側の橋脚。

橋脚の上流側と下流側は花崗岩の石材で補強されていたことが窺えます。

橋脚の中身はレンガ積み。現代のコンクリート橋脚では当たり前になっている鉄筋などは入っていません。

橋脚の周囲には、謎の木枠?が残っています。橋脚の根元を川の流れ(浸食)から護る多少なりともの予防策だったのかもしれません。

橋脚の上流側には桝が設けられていますが…鉄筋とか鎖とか、樹脂製の網とか。後世のものなのかな?
ここまでは、地元の多くの方々も目にしたことがある光景だったと思います。そう言えばよく見たことがなかったなぁという人は、梅雨前の川の水位が低いうちに、散歩ついでに行かれてみてはいかがでしょう^^
上流のダム放流サイレンが鳴った際には速やかに川岸から離れてくださいね。モタモタしていると増水します。
さて…。
実はここからが私の今回の愉しみであり、目的。
「昔のカメラマン目線」で見る澱橋です。
今では橋台と一部の欄干、根元だけとなった橋脚を残す旧橋は、仙台城二の丸に司令部の置かれた第二師団のこともあって明治二十五年(1892年)に軍の要請によって鉄橋へと架け替えられたものでした。同じ年に大橋も鉄橋へと架け替えられ、2本の橋は当時「広瀬川の二大鉄橋」と言われました。ベルギーからの輸入鉄鋼で建設されたトラス構造の近代橋は名所となり、多くの写真が残されました。
私の手元には絵葉書等で何枚か旧橋の写真があり、その撮影地点を探してみるっていうのが今回の目的であり愉しみだったのです。
昔のカメラ機材では、超広角レンズは無かっただろうし、望遠レンズも使い勝手が悪かっただろうということで、標準~やや広角のレンズ(焦点距離50mm~35mm辺り)で撮影したであろうと仮定して、撮影地点を探してみることにしました。
まずは、橋の上流側から。
よく発達した中州に上流端から上陸し、川の本流沿いを歩きます。
その昔、新人の兵隊さんが水泳の訓練をしたという新兵淵付近から、の。

この辺りから。

どうでしょう。旧橋は現在の橋の手前に、ほんの少し高い位置に架かっていたとすれば、この辺りから撮ったんじゃないかと。今の写真では中洲が発達してしまって眺めを遮りまくってます(汗)。ちなみにこの絵葉書は明治四十年(1910年)から大正七年(1918年)の期間に用いられた規格で作られており、経年100年超です。
では次。

橋の袂付近からの光景。今では柳の一本木立が気持ち良く風を受けています。

橋を行き交う人々、川原で休憩でもするのか荷馬車の人々、口元に手をやり(ハナクソホジッテル?笑)カメラを見る少年等の姿が写っています。こちらも経年100年超。
旧澱橋はトラス構造の鉄組み上部に橋面(路面)を渡した造りで、橋を渡る人からはトラス構造が見えませんでした。同時期に鉄橋となった旧大橋は鉄組み下部に橋面を渡していたので渡る人からトラス構造が見え、同じような造りでも異なる印象を持った2本の橋でした。
さて次は下流側からですが、これは別の日に撮影。

この辺りなのかなぁ…。旧橋は今の橋の一本奥側として。

こんな感じ。ちなみにこの絵葉書は使用済みで消印があり、明治四十四年(1914年)に使われています。岩手県の人が東京の人へと宛てた絵葉書。帰宅する道中「廣瀬の通過も昨日の夢と過ぎ」と表現し「前沢に辿り着いた」と書いている絵葉書です。澱橋から岩手県前沢までは100km超。昨日の時点で夢であったのであれば一昨日に広瀬川を渡った…と考えれば、2日間で100km超の徒歩移動は可能。東北本線も開通していたけど、歩いて旅する人もまだ居たのでしょう。
上画像の絵葉書と似たようなものがもう一枚あるけど、割愛。
で、もう一枚は。

…もはや今では橋の様子も木々で遮られつつありますが、極力近似値で撮影。今の橋の向こう隣に…。

こんな感じに旧橋はあったのでしょう。
上の画像は大正十四年(1925年)発行の仙臺市写真帳に掲載されたもの。対岸の橋台脇には高い石垣が見受けられます。角五郎側の旧橋の袂も今の橋の高さと同じくらい高い位置にあったようです。

二の丸、第二師団のあった川内から澱橋を渡れば、八幡町までもうすぐ。
八幡町は作並街道沿いという人々の往来する要所として賑わっただけではなく、澱橋という存在で武士や軍人が趣向品や日用品を求めに来ての恩恵も受けた側面もあるのだろう、と思ってみたり。
今ここに橋が無かったら、どんな地域になっていたかな?…そんなことを考えてみるのも楽しみの一つかもしれません^^
☆前回の「何処っ写?」解答☆
●第1問【初級】…国見峠・仙台仏舎利塔
●第2問【初級】…八幡・龍寶寺(金剛華菩薩)
●第3問【初級】…八幡・大崎八幡宮(沼田豊前正藤原茂密像)
●第4問【中級】…三居沢・三居沢発電所(藤山常一胸像)
●第5問【上級?】…広瀬町・ライオンズタワー仙台広瀬敷地内