もう9日だと言うのに、ブログのトップ記事が年明けの挨拶みたいなもんじゃ、かっこうもつかないなと思い、最近考えたことを書こうと思います。
最近、父とも話をすることですが、今まで出会ってきた先生クラスの農家さんの中で、全てがわかっているプロはいなかったなと思うんです。
農業は自然相手ですから、もちろん全てをわかることなど不可能です。
しかし、そんなレベルではなく、自分の技術を否定されたくない、前面に押し出したいために、その他を尊重しないようなことです。
昔、ほぼ同時期にこんな2人がいました。
Aさんは、剪定を啓蒙していましたが、それに固執しすぎるがあまり摘果のことは普通にやっとけ程度。
Bさんは、摘果を指導していましたが、それによる隔年結果予防を信じていたので、剪定のことにはほとんど触れず。
この2人はそれぞれの地域で、リーダー的存在でもあり、確かに先生でした。
うちは予備枝剪定を推進していますから、このAさんに賛同しそうですが、2人とも間違えているように思えてなりません。
それぞれに、それぞれの技術レベルは目を見張るものがありますし、匠のレベルです。
しかし、農業は自然であるということを考えれば、何か1つのことを習得すればそれで良しということもないし、それ以外のことをおざなりにしていいはずもありません。
先生ならば、なおのことです。
教わっている側は、素直に聞けば聞くほど、先生の言葉をそのまま受け止めます。
Aさんが、「摘果は普通にやればいいやろ」と言えば、そこにあまり疑問を感じません。
Bさんが、「剪定より摘果」と言えば、剪定に疑問を感じません。
それでは、全く先生足り得ないと思うんです。
さらに、こういう方々に限って、「作物と会話できるようにならな」と言います。
しかし、どうでしょうか、特にみかんですが、春に花が咲いて、秋から冬にかけて収穫します。
人間で言えば、長距離というかマラソンを走ったようなものと例えれば、その後に何か一つのことをしてやったからといって、それで体力が回復するでしょうか。
マラソンが終われば、水分を補給し、食べ物を食べ、風呂にも入り、寝もします。
42kmも走るレースをしょっちゅう行うことはできないので、次のレースまでに体力を回復させるわけです。
人間はそうやって自分で調整できますが、自然はなかなかそれができません。
だからこそ、剪定をしたり、肥料をやったり、摘果で不必要な実を落としてやったりと様々な自然の手伝いを行うことで、その自然の恩恵を受けて、農業を行っているはずなのです。
それなのに、人間の欲や見栄だけで、上記したようなことがあったいいのでしょうか。
何度も書くようですが、私は間違えていると思います。
人間ですから、このようなことに陥りやすいことはよくわかります。
だからこそは、私は「先生」という言葉が嫌いですし、たまには指導することもあるのですが、絶対に先生とは呼んで欲しくないのです。
また、指導する側も強いリーダーシップは必要ですが、それに溺れてしまってはいけません。
そんな例ばかりを見てきましたから、うちの主張は毅然とするが、自分の体裁のためだけに他を受け入れないというようなことがないようにしなければと気をひきしめた次第です。
この記事は、素直な今の気持ちをそのまま伝えたいので、推敲せずに載せたいと思います。